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「理想的帝都建設ノ為真ニ絶好ノ機会ナリ」
復興を担う内務大臣に就いた後藤新平(1857~1929年)は、震災を機に、狭い路地に木造の家屋が連なる首都を、西洋をモデルにした近代都市に改造することを企てた。

震災の2年前、後藤が東京市長だった時代にも一度打ち出した計画だったが、当初は「大風呂敷」と政府に相手にされなかった。ただし、後藤の志は道半ばに終わった。

計画案に必要だった復興費用は41億円。当時の国家予算の3倍で、被害総額約55億円、国民総生産(GNP)比で37%に上った震災直後に認められるはずもなく、大蔵省や政界の長老らでつくる復興審議会を経て、最終的に国と東京市で計7億円に縮減された。内容も絞り込まれた。100か所以上を整備するはずの大小の公園は半減。幹線道路の整備や区画整理の対象は現在の千代田区や中央区など火災による焼失地域にとどまった。
整備が焼失した都心に限定された上、焼け出された住民が周辺部に流出し、計画の対象外の地域には木造住宅が無秩序に広がった。そして、戦時空襲で東京は再び焼け野原となった。
昭和天皇が、未完に終わった後藤の計画を惜しんだというエピソードもあるが、戦後復興期にも課題の解消は進まず、東京の防災上の問題であり続けた。https://www.bosai.yomiuri.co.jp/after100years/11001