鎌倉武士「ひゃあ、モンゴル人強すぎる…負けちゃうよー」台風「よろしくニキー」
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笠置山の戦いより先に九州武士が似たようなことやってたわ おっさんが教えられてたモンゴルに殺されまくったけど台風に救われた謎エピソードなんなんや
あの矢を射かけられてる馬と武士の屏風も悪意ある切り抜きにしか見えんし そもそもモンゴル軍という名の朝鮮軍だったんちゃうの 【朗報】鎌倉武士、モンゴル兵の死体を返却する人権意識高い集団だった >>8
神風とか言うオカルトで精神論バトルさせてた昭和の名残やろな 周辺と手を組んでがっつり備えて台風シーズンまで粘ったみたいな話は聞いた >>12
あの敗走モンゴル兵の図が優勢に見えるような切り抜きの意図はなんや 1回目はマジで海が荒れたと思ったらいなくなってた
2回目は台風シーズンに1ヶ月も九州沖に停泊してたらそら台風来るよって感じ ユーラシア大陸がメインの時代だから島国に割くモチベーションめちゃめちゃ低そう 名乗りあげてるとこ弓で射たれたって教わったわ
卑怯なやつらや 主力は嫌々連れられて来た朝鮮人だから数が多くても士気は低かったらしいよ モンゴルに惨敗して台風で運良く勝てたというのは嘘やけど
その逆張りで
鎌倉武士はルール無用の残虐ファイトでモンゴル軍に完勝した
というのも嘘やわ 蒙古軍「爆竹ポイーッ」🧨
鎌倉武士「怖いよおおおおおお😭🐎😭🐎😭🐎」 モンゴルとか言うまともに使者も送ってこれない蛮族
使者送ってきたら日本側は考証で何とかしたのに >>8
むしろあれは
あそこで射られてる武士が主役で
こんな激戦を頑張ったんだから恩賞ください!ってプレゼンするための絵や >>24
打線シリーズもだいたい七割程度しか事実じゃないしな 言うてあの時代海を渡って他国を征服するってめちゃくちゃ難易度高くないか? 鎌倉ジャップ「頼む神風吹いてくれ~😭」
↓
日帝ジャップ「俺たちが神風だ!😤」
ジャップも成長したな >>24
残虐ファイトの元ネタってなんJ民の立てたデマスレらしいな
全インターネッツがなんJに騙されて誇らしいわ >>27
真面目に使者に会って話聞いてれば鎌倉幕府の滅亡も先延ばし出来たかもしれんのにな 当時の軍事技術だと島国を攻めるのって相当難しくないか
まず空が使えない時点でほぼ無理じゃない? 対馬は完全に制圧されたんやろ?なんで橋頭堡にせずに引き返したんや? 西征が頭打ちになってあがいた結果の逆張りヤケクソムーブにしか見えん
モチベも体力も無いからすぐ諦めたと
んですぐ分裂 恩賞で配る土地がないなら滅ぼして奪えばええんやぞ→霜月騒動 あれ2回目にきた時は準備しまくってボコボコにして上陸もさせなかったんじゃなかった? >>8
全部ウソやからな
鎌倉武士の蛮勇で追い返した
博多を略奪したのも鎌倉武士やし 北条時宗「腹立つからカウンターアタックしたろか」
さすがに止められたらしい >>39
現代で着目すべきはそこよな
ろくな給料も払わずに役員報酬や配当報酬で自分だけ肥え太る経営者とか株主も同じ目に合うべき >>35
亀山上皇がわざわざ熊野や伊勢までいって祈祷したんじゃ >>36
あの時代に海渡って戦争するって凄いよな
日露戦争のときですらむっちゃ金掛かってるのに >>35
資料として残ってるのが神社サイドが書いた召喚師が祈祷で蹴散らしたみたいなのしかないらしい >>45
現代黒人を見習って一揆や打ちこわしをするべきだわ モンゴル奴隷のシナチョンが鎌倉武士に惨殺されたのち敗走途中で台風直撃して壊滅したのが元寇 >>8
>>41
それも嘘やから安心しとけ
しょせん歴史学は教授先生のお気持ち次第でいくらでも歴史は変わるからクソほどの信頼性もあらへんねん
所詮は人文学や >>8
侍という軍人が活躍すると具合が悪かったんやろ戦後やし 1回目はまだ宋と戦争中やなかったか?
二回目で完全に負けて三回目準備中にクビライ死んでそのまま立ち消え 朝鮮がボコボコに負けて速攻帰っただけ
台風は関係ない >>60
むしろ神風云々いってたのは戦前じゃないのかな >>51
日本の弓は世界でも射程、威力共に高いんだけど
元々は対モンゴル帝国用に開発された 元寇最後の地、鷹島の地名一覧
首除(くびのき)・首崎・血崎・血浦・刀の元・胴代・死浦・地獄谷・遠矢の原・前生死岩・後生死岩・供養の元・伊野利(祈り)の浜 クビライ「日本攻めるわ」
クビライ「やっぱやめるわ」
クビライ「やっぱり日本攻めるわ」 もっと先の大型帆船でも操船要員入れて収容人数100数十程度って考えると歩兵移送するだけで想像つかんくらい無謀やな >>68
俺が何言っても信じてもらえないと思うから調べてみて
形も独自なんだよ和弓は
ナショナルジオグラフィックでも特集されとる 俘囚の多くが関東に移住して騎射技術を坂東武者が受け継いだとは聞いたけど藤原純友の乱を見るに四国の方にもいたんやな >>36
いうて黄河も長江も渡って勝ってるからな
難易度的には変わらん >>37
土地目当てっーよりも
「おう日本何で挨拶に来ねぇんださっさとウチに頭に下げにこいや」って手紙無視したのを
あいつ調子こいてなボコるかって感じで来た兵隊だから
そもそも常時駐在して支配するってタイプの国じゃないしな >>74
そもそも日本に来たのは宗と朝鮮の軍やからな
遊牧民上がりで騎乗が得意な元軍ではない モンゴル「台風や!早いとこ着岸したろ!」←わかる
モンゴル「台風や!大海原へ吶喊する!!」←わからない ソ連が最終兵器でヨーロッパ戦線や満州でモンゴル兵投入して3秒で全滅したの草
かつて地球最強と言われたモンゴル軍はいずこへ... >>70
それは嘘や
20m弱のガレオンで兵士1000人以上載せれる
船の積載量って半端ないから >>75
手紙無視どころか使者の首飛ばして、返事が来ないなぁもう一回送るかって来た使者の首も飛ばしてブチギレられてるんだよなぁ モンゴル「ジャップも朝鮮攻めてくれん?」
北条「んん断る!」
朝鮮「50年粘ったけど降伏しました」
モンゴル「次はジャップや!」
北条「勝ったぞ。けどボロボロや」
日本民「なんか中央が弱ったし出稼ぎしたろw」
明&朝鮮「倭寇が酷いぞ何とかしろ」
これがバタフライ効果や でも鎌倉幕府は崩壊したから実質モンゴル軍の勝ちなんだよね 教科書の絵だと
モンゴル「てつはう、パンパンw」
鎌倉武士「ぐあー!!」
で負けてるように見えるよな 幕府としてはなんか神風で勝ったって方が都合が良かったんや
恩賞となる土地がもうないし あの例のコピペ笑えるよな
浮きながらクッソ重い牛の死体船に放り込むんやろ
どう考えても無理やろwww >>92
ちゃうで
燃え盛る本能寺からタイムスリップした信長や モンゴル軍 規律アリ、士気ほぼ無し
日本軍 規律ナシ、士気各家が恩賞目当てで爆上がり 略奪しに来た大陸側vs略奪しながら来た本土側やっけ 降伏した朝鮮人は助けてあげたらしいけどその人達その後どうなったんだろう? >>15
実際クッソ強力な兵器よな
町中だくらったら生きていかれへん 神風云々は後世の神職どもが信仰を得るために喧伝したとか教師に聞いた >>97
10万人のうち2万ぐらいは殺されずに済んで奴隷になったらしいよ
あとは南宋との取り引きしだい ネトウヨ史観だと鎌倉武士が強すぎて
モンゴル帝国軍をぶち殺したらしいぞ・・・
ずんだもんがゆうとったわ 1回目の戦いはかなり苦戦したけど2回目は対策練りまくったんやろ 武将の首をぶら下げて戦意削ごうとしたら逆に首取り返そうと勢いついたの草
侍を知らんかったんやろなぁ >>8
神風最強論は室町時代から台頭するんや
朝廷や寺社などの権門勢力が弱体化する中、
仏教の権威と実用性を吹聴するために
僧侶の祈りが神風を起こしたという神風最強論が形成されたんや
当時は神戦思想がまだ残ってたからこれで通用したんや サジェストに鎌倉武士 バーサーカー 戦闘民族 やばい 海外の反応って出てくるからガチやぞ
ソースはなんJ >>103
当時の鎌倉武士って戦のない時は気まぐれで近所のやつ殺して腕とか足を家の前に飾ったりしてたとかのキチガイだったらしいな アニメが低予算で、薄汚い画面だったことだけ覚えてる >>110
まあローマ教皇だってフン族のアッティラを説得して侵攻を止めた
ってのを売りにしてたからやることは何処も変わらんね 元のが優勢だったならどのくらい日本の領土分取ってたんや? 戦国時代には廃れてた馬上大弓の流鏑馬戦法が強かったとは思えんのよな・・・ >>116
100か0かだから優勢なら根こそぎいかれるわ >>112
当時の農民って戦い求めて弁当持って合戦見に行って敗走した方を死体狩りしてその武装で落ち武者狩りでボーナス得てたとかのキチガイだったらしいな >>116
分からんけどモンゴル分裂後に日本ハーン国になってたと思う >>105
武力で追い返したのは間違いないんだけど彼らの中では何故か世界で唯一って事になってるのがね
ベトナムやらエジプトでも追い返されてるのに >>99
熱々に熱した糞便を城の上から敵にぶっ掛ける最強の防衛術 ツシマのスレで「蒙古軍は撃退したのになんで占領されてるんだ?歴史改変か?」ってヤツいてビビった思い出 モンゴル人は司令官クラスだけで
大半の兵は無理やり徴兵された朝鮮人 >>120
落ち武者狩りも貴重な収入源とか怖すぎるわな >>126
けど戦国の明智打ち取ったとか俺たちナンジミンが農民ならやるでしょ集団で >>122
インドも頭脳戦で撃退しとるしな
さすがゼロ考え出しただけはある 流石の鎌倉武士も1回目から糞尿投げ込むようなやばい奴らじゃなかったんだわ 元軍が拠点にしてて台風で壊滅した島が長崎にある
船がほとんどやられて戦いもクソもなくなったんで指揮官たちだけ残った船で部下置き去りにして逃げた
残された10万人は逃げ帰るために船作ろうとしてたけど鎌倉武士たちにバレて攻め込まれて殺されまくった
残った指揮官クラスもいたけどそいつらは責任取らされて全員斬首
その場所は今ではモンゴル村という名前のテーマパークになってる フビライの手下ってどう考えても漢人諸侯なんやけど
教科書の図やとちゃんとモンゴル風なの謎 >>127
明智が武芸に優れていてもしょせん一人
一人の武でできることなどしょせん限られている
鍬もった農民数人で囲い込めば絶対死ぬ >>132
栄枯盛衰すぎて草
国破れて山河ありの世界やな 四駿四狗の1人でも派遣された壮絶な戦いやったやろうなきっと
モンゴルから近いし モンゴル側も二回目は平地なら絶対負けないような兵力動員してたけど
武士さん側は事前準備入念にしてたし得意の馬も連れてきてはいたけど上陸出来ないから意味ない
日本の長弓の方が射程長いから弓の撃ち合いも勝てない
ガチの不意打ちで九州半分ぐらい取って上陸拠点作って大軍送り込むぐらいしか勝ち目がない ベトナムかどこか東南アジアでも台風に敗走したと言われてるな
陸戦最強だが海戦は弱い(というか知識が少ない) いやー台風の神風のおかげで勝てたから神風感謝なーりー
けど戦ったお前らの報酬はなしな >>132
ここ再現度高くて九州場所でモンゴル力士めっちゃ好んで行くんよな 刀伊の入寇んときも恩賞でいろいろあったんよな
「勅命届く前に戦って追い返したから私戦なんで恩賞無し」って意見あって
藤原実資が勅命関係なくても恩賞貰った前例出しつつ
「そんなこと言ってたら誰も戦ってくれなくなる」って激怒して
恩賞でることになった Wikipedia見ると日本に来た相手方の兵士の大半が帰らぬ人となってるんやな なんで北条の幕府はすぐ終わり徳川はあんなに続いたんや
褒賞なかったら相手に攻め入って切り取り放題やで!っていえば良かったのに >>145
いうて150年くらい続いたんやろ鎌倉幕府 >>145
北条の幕府じゃないやんけ
正当な将軍職がないから北条の後ろ楯は権力だけ
他に勢いあるやつが出てきたら切られる運命や >>145
北条が実権握ってる時点ですでに終わってるから >>126
勝ち確定した陣営から落ち武者追討令がでるらしい >>138
上のレスにあるけど来たのは軽装弓騎兵で嘘の撤退して相手誘い出してから囲んで弓でふるぼっこする純粋なモンゴル軍じゃなくて大半が高麗兵ちゃうの
それとモンゴル兵が使ってた複合弓って速射性飛距離威力共に優れてたって見たけど
陸続きやったらやばかったと思うがなあ 九州は刀伊の入寇やそれ以前から大陸の海賊にちょこちょこ攻撃されてたからな
藤原純友に博多湾から上陸され太宰府政庁焼き討ちされたりもしたし
何気に北部九州は戦慣れしてるってのはあったからな
特に大蔵春実が藤原純友の乱の時に活躍して北部九州に子孫が土着して
尚且つ子孫の大蔵種材が藤原隆家を大将に刀伊の入寇を撃退したし
さらに子孫の大蔵氏流原田氏も元寇で一門の御家人に討死したのもいたわな
元寇ではあまり語られないが大蔵氏の系譜が筑前に土着してたのは地味に大きかったわね
先祖が博多湾沿岸での戦いを経験してたのは家伝として伝わってたろうからな そもそも第二次大戦の時のイケイケのドイツ軍でさえイギリス上陸できんかったんやから
それだけ渡洋って難しいんやろ
そう考えたらフィリピンやら沖縄に50万規模の軍派遣してたアメリカってキチガイやな >>153
日本の地理風土は進撃するの大変やからなぁ
特に西日本や九州は大小河川があり湿地帯や田んぼがあり山と山の間に平地がへばりついてるからな
だからこそ元寇でも沿岸部から数キロぐらいしか進軍できなかったしな >>145
そういや江戸幕府って家光の時代に
中国遠征(明の残党に援軍)とか
ルソン征伐(ポルトガルの拠点潰し)とかの計画あったんよな
ポルトガルの使節団を全員処刑して報復を警戒してオランダに頼んで最新の大砲作ったりとか >>157
実際上陸がうまくいったとして京都や鎌倉まで延々と進軍するつもりだったんやろか 島国の利と台風で追い返しただけなのに日帝はこの体験で神の国とか壮大に勘違いして暴れ回ったから木っ端微塵に粉砕されたんだよね 刀伊の入寇なんてあったんか知らんかったわ…
女真が来てたとかやべーやろ 海から上陸して苦戦して
増援なく敵地に取り残されるって
滅茶苦茶悲惨よな >>155
そりゃそのころの日本って疲弊しきったあとやしな
開戦当初じゃ簡単に上陸させんやろ 四百余州を挙る十万余騎の敵
国難ここに見る弘安四年夏の頃 日本の記録だと神風で外国の記録だとふつうに負けたみたいな感じだっけ?
まあ昔すぎてわからんわな、フロイスもいないしな
けど竹崎季長の残した絵は貴重な史料だね、戦国の馬はポニーとかゆうけどふつう馬に乗って戦っとる
事実かはわからんけどさ >>163
降伏勧告に従えば優しいで従えばの話やが >>145
壊滅的なまでに人材不足や。
元々武家でしかなくて政治なんてからきしなのに。下手に成り上がったせいで、政治任されて終わった 日本にうまく攻め込めても山あり谷ありでうまく進軍できない上すげー完璧に統治されてた訳でもない九州じゃ
無名の山賊や野党にも道が狭い所で数居ても意味ない戦闘に持ち込まれたりして襲われたりしたんだろ >>159
じゃねーの
まぁ九州に土着する気でいた連中もいたろうけどもな
まぁ九州の御家人メインで撃退したのは何気に大きなポイントだわね
本州の御家人投入することなく撃退したんやから
あと鎌倉武士といえば騎射なイメージあるがかなり徒士戦もやってたみたいやからな 北条は有力御家人のライバル蹴落としたら
こんどは北条家内で継承争い始めてたな コリアンはモンゴルの劣兵として日本に攻め込んだ謝罪と賠償はしたんか? >>163
村上春樹の小説にあるけど
モンゴル人がロシア貴族を床下に生きたまま
閉じ込めて、そのままパーティーをしたって
本当なのかな? 野っ原でしか戦えないモンゴリアンが日本のゲリラ戦に対応できるわけない >>174
貴人への処刑法が絨毯の下に寝かせてその上を馬で走りまくるから案外敬意あるかもしれんで 当時の日本の矢尻が大きすぎてヤバイわ
モンゴルが拳銃の銃弾としたら日本はライフル弾位に違いがある 当時なんて国中で軍閥やら諸侯やらできて朝廷が「もう管理無理やから一番勢力あるやつらに政治任せるわ」なんて匙投げた時代やろ
そら武士も武士道とか名誉とか一切念頭にないチンピラみたいな集団だったんちゃう >>166
八幡系神社が影響力増す為に言ったことやからな神風
博多湾沿岸に橋頭堡構築できずに船に撤退させるくらいに猛攻やってたのは事実やからな
三大八幡の一つ筥崎宮の楼門建立した小早川隆景が亀山上皇の御宸筆の「敵国降伏」が今でも大陸に向かって掲げられとるからな
ある意味で一番攻撃的な神社w >>145
大半の執権が短命といえ北条時宗ですら正五位下相模守
いちばん上でも従四位下とか家格が低すぎて舐められる >>153
書いてる通り陸続きならモンゴルが余裕で勝つで
モンゴルの強みは馬やから海渡る時点でとんでもない大ハンデや >>176
そうやって自分達が強いと勘違いしてボッコボコに叩きのめされたのが日帝なんだよね >>175
飛距離はむしろ和弓の方があった
どっちかというと矢の毒の方が大きかったんじゃないか
日本は所詮ずっと支配権争いから抜け出してなかったからな >>184
名目上執権はただの将軍の補佐の役割なんだから高い位階が与えられる訳が無い >>9
モンゴル兵の死体の返却はしてない
したのは中国系と朝鮮系の兵士の遺体だけ >>185
陸続きでも日本の風土やと進軍は大変やからそこまで力発揮できなかったろうよ
東国ならともかく九州西日本やとホンマ進軍大変
戦国時代も早いうちに西日本や九州は武士は騎射ではなく徒士戦がメインに切り替わったしな
馬の機動力活かせる土地ではあまりなかった >>163
この頃のモンゴルは理知的で散々抵抗した挙句臨安を制圧されて滅亡した南宋の皇族も丁重に保護されて朝廷で重役になった奴もいる >>11
初戦は結構こてんぱん
第二戦は結構戦えてた >>176
近代戦の父みたいなロンメルとパットンがそれをわが父とか呼んで崇拝してたわけやが
モンゴリアンチョップみたいなイメージでおるんか? >>196
今も少し歩いたら海岸やしそんな変わらんな 当時の船は、風を利用して移動するわけだよ。
だからモンゴルは秋を選んで日本に来てるけど、それ台風だからw >>189
幕府内でも鎌倉後期には執権より北条家得宗のが立場上になって
他の北条一門も不満持ってたんやっけな
特に名越流北条家は対抗意識むき出しで反抗してた >>17
切り抜き言うけどそもそもが日本側が都合良く描いた絵じゃん >>17
普通に自分はこういう戦況のなか立派に闘いましたって知らしめるためだろ
実際モンゴル優性だったんだし あとこの当時の博多湾沿岸は漁村や港湾商業街の先はすぐ田んぼや湿地帯やったからな
今のように重機が入っても大丈夫な整地された田んぼではないからな
実際筥崎宮の先に当時は深田と呼ばれてた地域があるからな
腰まで浸かるような田んぼも機械化進むまで日本各地にあったくらいやしな
(後に深田は元寇で討死した原田氏御家人を祀るので原田という地名になった) 結構普通に防衛出来てたらしいなコレ
防塁多くて攻めあぐねて停泊してたら台風にやられたみたいな感じ >>189
そりゃそうだが
それでも家格向上させておくべきやったな
都産まれの清盛や頼朝ならさせたと思うで この時代ですらモンゴリアンがやってくるのは物理的に近い博多ですよ
邪馬台国畿内説がいかに荒唐無稽か分かる
あの時代にチャイナまで行けねえから 船を着けられる海岸なんて相当限られてくるから上陸地点絞れたら無理ゲよな
逆に元軍がどういう計画で侵攻したのか分からんけど >>190
遺体返還じゃなくて中国朝鮮系の敗残兵は国に帰しただったの間違いだったかも試練 >>206
弘安の役に関してはかなり準備してて体制整ってたからな
鎌倉幕府も一門の北条実政を文永の役後にすぐ異国征伐大将軍として九州に送り込んで
7年間攻めてくるまで張り付かせていたからな
そりゃ弘安の時は統率とれた動きに変わるわな >>206
あんまり語られてないが
本州の山口県の方にも防衛隊を配備しててモンゴル側の奇襲策を待ち伏せてあっさり潰してるからな
現場もだが上も戦い慣れしまくってるんだよな鎌倉武士
マジで強い >>191
時間はかかることは確か
ただ同じように攻めにくいところはモンゴルは落としてきてる
モンゴルなら直接的に落とすのに時間がかかるところでも周りを降伏させて取り込んで孤立させてから蹂躙する >>210
何せ当時の事だからロクな情報も無しで行くしかないからな
まぁ適当な所に上陸してその後は流れでとか
で、行ったら上陸できそうな所には全部石塁巡らされてて
上陸しようとしたら石塁から弓ばんばか射かけられて
どっかエエとこあるやろとやってたら台風来てオワタ >>212
その間幕府はどれくらい大陸情勢とか情報収集しとったんやろな つーかモンゴル帝国の異常さと鎌倉幕府の怖さしか伝わってこないわ >>214
日本は奥に深いから難しいのよ
地続きであろうが地形が同じならば包囲分断は難しい
ベトナムで撃退されたのと同じことになる
極地戦的な戦闘は元(モンゴル帝国は苦手
日本が本格的に開発されるのは元寇後の鎌倉後期から室町にかけてやからね
元寇の恩賞がないに等しいから新たな土地は求めることは無理で地頭たる開発領主は自領の開発により力を入れるきっかけにもなったしね
だから兵糧現地調達するのすら当時は大変やからね 征服したばかりの高麗人に船作らせたからボロ舟ばっかで日本につくにも一苦労だったって聞いたことある >>192
フビライって有能やと人種関係なく登用してたな
文天祥配下になれなれ言われてたけど忠節全うして死んじゃったけど 日本人が名を名乗ってる間に弓矢で蜂の巣はワロタ
元がビックリするほど日本人弱すぎやろ >>223
それ一騎打ちの作法ってだけで普通に奇襲かけて集団で騎射してたみたいやからな モンゴル騎馬軍団を普通にボコったマムルーク朝のほうがすごいわ 御家人の概念がいまだにわからん
九州の田舎の弱小領主が直接鎌倉幕府に仕えてたんか? 坂井っていうサムライがほぼ一人でモンゴル兵撃退したらしいで
大将の首もこいつが獲った >>223
一騎打ちの作法も知らない土人は奇襲夜襲捕虜皆殺しなんでもやってええんやなモードでボコったで ぶっちゃけ一番ヤバイのは地続きでモンゴル帝国跳ね返したベトナムやろ
あいつらマジでなんやねん第二次世界大戦終了後の世界王者アメリカですら跳ね返したし 元寇のやつらの祖先って今の自民党や電通の祖先だっけ
日本を支配している壺や朝鮮人の祖先が元寇として日本人を殺してきたんだよな >>235
ベトナム、西は山しかないし東は海しかない謎の土地なのも防衛強そう >>230
鎌倉御家人が日本中に「領地」を貰ったんやないの
で鎌倉からやってきた武士が寺社や公家の荘園を押収しちゃうみたいな 2回目は元も結構本気やったからな
ただそれ以上に鎌倉武士もクレイジーだったという >>235
地の利を得たぞやで
第二次第三次遠征でジャングルでのゲリラ戦をやった陳興道の戦術勝ちや 樺太だかアムール川の方だか行って負けてなかったっけ
何のためにあんな所まで遠征したのか知らんが >>243
哀しき漢達の熱き神風をなかったことにはしてはいけない 棺桶に入れられて船で何日間も彷徨ってそれから戦えって
ロシアに騙されてウクライナで戦ってるインド人より悲惨やな モンゴル軍の鎌倉武士評
南宋遺臣の鄭思肖「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」
元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。」 わいの読んだ本によると昔実朝に仕えてた老人が神器使って嵐起こしたって書いてたで >>235
中国統一した後の秦ですら5回侵攻してようやく征服したからな >>230
御家人ってのは鎌倉殿(鎌倉幕府将軍と主従関係結んで地頭の権利を獲得した武士
故に鎌倉幕府御家人でない武士もいる
鎌倉幕府が成立するまで武士は私田経営者であり荘園の荘官であり、国衙の郡司、郷司、保司などの役人でもあった
それでも権利関係は弱く受領や荘園領主の気分次第で権利を剥奪されかねなかった
それが源平合戦で平家没官領の多くを頼朝の私領とすることができ
それを持って所領を安堵して主従関係を構築していたった
で、権利関係を認める地位として地頭を設置した
これが御家人
ただ御家人は相変わらず荘官でもあったし国衙領の役人でもあった
今度は地頭がそれを利用して荘園や国衙領を侵食していくことになった >>243
攻めにくい島国の利点を神風などと勘違いした土人国家の末路 モンゴル軍の鎌倉武士評
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 >>244
アイヌが樺太経由で大陸に浸食してきてたから追い払った ここまでてつはう2件だけか……もっとてつはえよ!! 「元はモンゴル王朝だから、元寇(蒙古襲来)は中国の侵略じゃない!キリリ」
中国人さぁ?w 元寇に対する誤解まとめ
1・元軍は海上戦が苦手だから苦戦したのではなく、一旦は上陸したものの、陸上戦で大敗したから、海上戦を強いられた。
2.元軍は他民族混成軍だったから、士気が低く弱かったわけでもありませんでした。
そもそも、モンゴル人は遊牧民であり、人口が少なく、モンゴル帝国創建以来、征服した国の軍勢を軍に組み入れて勢力を拡大したのであり、日本遠征軍は他民族混成軍だったから、弱かったわけでもありませんでした。ナヤン・カダアンの乱では、クビライ率いる蒙古・旧南宋・高麗兵の軍勢がナヤン率いるモンゴル騎馬軍団に勝利しています。日本遠征軍は強力な軍勢だったのです。
3.日本側もそもそも最初から集団戦法でした。通説では、日本側は個人戦法であったとされていますが、日本側が一騎打ちを行なっていたとする史料は神が降臨して元軍を破ったと主張する『八幡愚童訓』という神社関係者が書いた史料しかなく、武士の文献で個人戦法だったとする史料はありません。むしろ、上記のモンゴル帝国側の武士評に「騎兵は結束す」と書かれているように、日本側の史料『蒙古襲来絵詞』にも、騎兵を結束させて集団で元軍を蹴散らす武士団が描かれています。
4.文永の役では、日本軍に苦戦した元軍は撤退中に暴風雨に遭ったのであり、暴風雨は勝敗要因としては関係ありませんでした。
弘安の役は、日本目指して遠征してから、日本軍に撃退され海上を彷徨うこと3ヶ月が経過しており、台風に遭わない方が奇跡でした。
5.弘安の役は旧南宋兵の棄兵ではありません。それならば、わざわざ、木材も資材も大量に必要とする軍船を製って日本に遠征する必要はありません。クビライ最大の脅威カイドゥにまわした方がはるかに、効果的です。
しかし実際は、大量の軍船の建造で、負担に耐えかねた民衆が盗賊化し、乱が続発するなど、クビライの治世の安定のための遠征としては全く逆の結果しか残しませんでした。 >>256
実際は、元、南宋、高麗連合軍だから
大陸連合軍みたいなモンだったけどな
ぶっちゃけアホほど攻めにくいのな九州って もともと中国は遊牧民に手を焼いてたからな
金払って大人しくしてもらってたりで そもそも攻め込まれてボロ負けなのに
いちいち船まで戻る意味わからんもんな。 文永の役の元軍は多くても5万いないぐらいで、こんな数で勝てるはずが無い
実際その日のうちにボッコボコにされて散々逃げ回って矢も打ち尽くして撤退している
さすがに二回目は学習して弘安の役では15万を越える空前の大艦隊を編成して攻めたが
次々と到着する鎌倉方の援軍に3ヶ月経っても戦況は好転せず、台風にもやられて撤退
というかこの季節の九州に3ヶ月も停泊していたらそりゃいつかは台風が来るのが当たり前で
むしろ来ない方がおかしいというか >>243
神風吹いて一時的にアメリカの空母機動部隊の作戦止まったで お前ら「元寇は中国人や韓国人が多数派だから本気じゃない!1軍じゃない!」
大元ウルス「中国人と韓国人とモンゴル人を含めた他民族混成軍30万でモンゴル騎馬軍団40万を倒しました」
元寇で日本に攻めてきた他民族混成軍は強力な軍勢だったんだよ 台風来る時期なの知らんかったなら、ただのアホやんけ 日本にしか元寇の記録がない時点でお察し
本体でもなんでもない奴らが攻めてきてくたばったんだろ >>258
ナヤン・カダアンの乱では元、南宋、高麗の他民族混成軍36万で40万のモンゴル騎馬軍団に勝ってるけどね >>252
むしろ太平洋戦争で何度も神風は吹いてるから
◆44年:台風9号コブラによって米第38任務部隊が大損害
駆逐艦3隻沈没、空母を含む18隻が大中破、9隻が損傷、艦上機108機喪失、800名が死亡又は不明
◆45年:台風11号バイパーによって米中部太平洋方面軍沖縄攻略部隊が壊滅的損害
戦艦4隻、空母2隻、軽空母2隻、護衛空母4隻、重巡3隻、軽巡4隻、駆逐艦他17隻が大中破
艦上機142機が破壊(人的損害不明)
◆46年:沖縄中城湾港に駐留する米補給艦隊を襲った台風14号
輸送船数十隻、1万トン以上の補給物資喪失、人的損害不明
(これはもし戦争末期の沖縄や日本本土攻略中に発生していたら、一旦作戦を中止するぐらいの損害)
普通の艦隊戦での被害より多くの損害を被っている >>227
あれモンゴル軍一万人やろ
たった一万人のモンゴル軍に勝って鎌倉より凄いか? >>266
高麗側にもあるぞ
日本側の勝利の記述だけど >>266
日本に攻めてきたモンゴル軍は殆ど日本で死んだからな >>227
マムルークは10万の軍勢だしまぁ勝つわな >>266
負けたはずの元の本国にはなんの影響も無かったしな
日本は何も得る物が無かったのに武士の恩賞だなんだと逼迫して滅亡に向かう事になったが 「聖徳太子」「元寇」「鎖国」「マゼラン」「リンカーン」教科書から消え始めるwvw使ってるとおっさんがバレるぞwvw
https://i.imgur.com/knB7tD5.jpg 最近Xで話題になってたやつ
「コロンブスがもしアメリカ大陸じゃなくて日本に来てたら日本人がインディアンみたいな目にあってた」
ほんまけ? 大軍展開できるような土地がそもそも少なく
やっと広い浦見つけたら高さ3Mの防塁と障害トラップだらけ
ようやく見つけた小さい浜に小勢で上陸しても
速攻で周囲から大量の鎌倉クレイジー族が沸き出て来て
多勢に無勢のボコボコに モンゴル帝国「日本をボコすぞ」
モンゴル帝国「まずは船をつくるぞ」
モンゴル帝国「高麗、船を作れ」
高麗「はい!わかりました」
高麗「侵略者のモンゴルの為になんで船作らなきゃあかんねん、適当でええわ」
高麗「できました!」
モンゴル帝国「よし、乗って日本をボコしてこい!」
高麗「!?!?!?!?!?!?!?」 >>277
コロンブス側の武力をどんだけ過大評価しとるねん 島津が女々しくて弱い雑魚ということで九州の端っこに流されるレベルや 騎馬軍団を展開できる平原→そんなものはない
気候→高温多湿
水→基本汚れてる
住民→気性は荒い
何の罰ゲームや… >>60
神風が特攻隊の名前に使われたように寧ろ神風をプロパガンダにしてたのは旧日本軍 >>275
軍船 4,400艘、15万の兵が消失して本当に何の影響もないと思うか?
元のメンツにも関わるしな 元寇のせいで高麗の山がことごとく禿山と化し木材不足で船が作れなくなり、倭寇の侵入を防ぐことができなくなったらしいな
自業自得やで >>276
「鎖国」と「いわゆる鎖国」の違いって何なん? モンゴル帝国と真正面でぶつかって勝った人々
マムルーク朝のバイバルス
ベトナムの陳さん
鎌倉幕府の北条時宗
インドネシアの謎の海の民
アフガニスタンの部族連合 マルコポーロ「日本は金がザックザクでっせ!」
こいつが戦犯やろ 流石に地の利でベトナムや日本には負けとるけど
中華王朝とイスラム帝国のあの世界2トップボコってるのはヤバい
ヨーロッパもドイツぐらいまで来とうし >>269
爆風を逃がすため開放式で建造するアメリカの軍艦は日本近海の荒海に弱い まともに海軍無いのに「いざとなれば神風が守ってくれる」って言ってイギリスに喧嘩売ってボコされた薩摩という裏切り雑魚が幕末に居てな >>276
日本最古の貨幣って、存在自体が最古なのか本格的に流通したのかが最古かって違いやろ
和同開珎も富本銭も両方正しいやん >>289
実態調査を行わずに伝記ソースで軍隊派遣する元軍サイドにも問題がある >>287
厳密には鎖国ではないって事では
一部とは言え一応交易してたしな >>285
実際その後の元の政治体制には特に影響出てないやろ >>287
「鎖国」だとガチで海外と一切の交流を絶って孤立してたみたいな印象与えるやろ >>287
出島はあったから完全な鎖国ではないってことだな
いわゆる海禁政策 >>292
薩英の勝敗はないとか言うけど
英国の軍門に下って幕府転覆に動いたとしか思えんわな >>292
薩英戦争らイギリスもそこそこダメージ食らってドローやろ? 因みに珊瑚海海戦で中破した空母ヨークタウンが航海しながら修理してミッドウェイに間に合ったり
ミッドウェイ海戦で爆弾を何発も受けたエンタープライズがダメージコントロールで持ちこたえて飛龍を沈めたり
レイテ海戦ではサマール沖で日本の戦艦に散々追い回されて何発も直撃食らった米軽空母がそのまま逃げ切ったりと
アメリカの軍艦、特に空母は異常な打たれ強さとダメージコントロール能力を持っているように思えるが
これは米海軍作戦海域の天候と日本海軍との建艦思想の違い
アメリカの軍艦は駆逐艦に至るまで復元性が低く、空母に至っては開放式の格納庫を採用しているので
艦形の割りに戦闘力が高く、日本の空母より多くの艦載機が積めるし被弾にも強く少々の爆撃でもすぐに復活する。
しかし荒天に弱く南太平洋のような海域で台風に遭遇するとバンバン沈んだ
日本海軍は友鶴事件の教訓で何よりも荒天性能と復元性を重視していたので、米軍の様に台風で沈んだ艦は無い >>292
薩摩だけで済んだら良かったが日帝は国家ぐるみでその認識だったから救いようが無いよな >>298
80年代の頃から1%切っとる北九州は四大の資格あんのかとは言われとった 江戸時代に「鎖国」言ってたのに
いわゆる~とか言い出すとか歴史改変だよ
1192を1185だって名実ともにを認めない歴史改変
徳川政権を1600年から言うのと同じ モンゴル軍「アイン・ジャールートの戦い?そんなのあったっけ?」
wiki引用
一方で、『集史』などモンゴル帝国側のペルシア語史料などでは、前哨戦ないし局地戦の扱いを受けている。モンゴル側の立場としては、この戦いに参加したモンゴル帝国軍は、フレグの帰還にともなってシリアに残された全軍のうちの一部の部隊であるからである。他のモンゴル帝国軍が敗退した戦闘は、後日にモンゴル側から反撃を受けて敗走、討滅させられている場合がほとんどであるため、アイン・ジャールートの戦いには印象が薄いようである >>302
ドローというよりはそれなりにやるじゃんって認めてくれたって感じかな
被害は圧倒的に違った 元って部族社会のアイヌにも撃退されたんやろ
鎌倉武士が弱かったんか? まあ日本の圧勝ってのも怪しいもんだよな
負けて帰った方からしたら
相手が強かったことにしたいだろうし
本心は行きたくなかったのなら尚更よ もし長州がイギリスの要求を飲んで彦島を租借させてたら今頃日本はイギリスの植民地だったみたいな事を伊藤博文が述懐してるんよな
高杉晋作ってすげーわ >>289
いうほど関係無いと思う
いうて晩年まで隙あらば行こうとしてたし
結構クビライ的には好奇心で獲りたい欲求とかがあったのやもしれん
その後の中華王朝軒並み日本侵攻とか捨ててるからな。 >>310
15万のモンゴル軍を壊滅させたんだし圧勝やろ >>306
明確な資料で学説変わらん限り大体は自説を残したい学者の言葉遊びやからな >>291
あれ爆撃に強いと言うのは二次的効果で、本来の狙いは艦載機を増やす為なんだよな
だからメインエレベーターも船外に設置されていた
ダメコンが強いのも、可燃物や航空機が格納庫で炎上してもそのまま重機で押して船外に投棄することですぐに鎮火できたのが大きい 1192なのか1185なのか論争ってマジで無意味やと思う
鎌倉幕府は段階的に成立していったもんやし
そもそも何を持って幕府やねんって話やし
成立年を確定させる必要性も謎やし >>290
ワールシュタットの戦いでポーランド&ドイツ連合軍を一方的にボゴボコにしてヨーロッパに大きく深刻なトラウマを残したしな。
おかげドイツではロシアを侵略してアジアの野蛮な蛮族との緩衝国にしようって考えが根強く残り独ソ戦の遠因の一つになったりしてる。 >>303
台風のなかでやらかした第四艦隊事件もあったしな
台風の右下部分が一番きついのこれで知られたんだっけな >>313
実際は上陸できた小分けの数百~数千を
万人の鎌倉クレイジーでボコっていった感じ
大兵力展開できる土地も無いまま
鷹島でまごついてたたら台風で壊滅って感じ >>313
城を落とすのに三倍の兵力がいるって言うし
上陸戦となればもっといるんじゃね
兵力差がどのくらいか知らんけど >>311
その頃に植民地にされてた方が今現代でちゃんとした独立が出来てたかもな
勘違いしてボコボコにされた挙句今や軍隊も持てない実質アメリカ様の植民地や >>312
基本的に歴代支那王朝は日本を支那周辺国の中で最も国力ある国やとずっとみなしてきたからな
周辺国の中では朝貢貿易でなくとも貿易続けたいくらいにメリットあったからな
実際私貿易の方がメリット大きかったからな
朝貢貿易やとかなり支那王朝の出費になったから >>316
学会ではそういうの重要なのよね。邪馬台国の九州説と畿内説の論争よりは生産的だと思うで 刀伊の入寇「対馬、壱岐で数百人が殺害される」←こいつもっと騒がれていいよな
大河で描かれるかな 大覚寺統の亀山上皇が祈祷して
神風起こして夷狄を攘った
水戸学に始まる尊王攘夷思想には
ピッタリのイベントなんよな ソ連と米軍のツートップ追い返したアフガニスタンも強い
モンゴルには占領されたけど >>316
ワイは1192でええと思う
江戸幕府だって秀吉死後は一番官位上だった家康政権で関ヶ原後はそれを強化して
1603年以前にもう江戸幕府機能はあったからな >>322
まあ長州閥のポジショントークの可能性はあるやろけど
高杉晋作のそのへんの知見の広さはすげえなあと思う >>325
やるんじゃないのかな
晴明が隆家を「役に立つ」って言ってたし ここで流行ってた鎌倉武士最強コピペ
大嘘だったらしいな
騙されたわ
時宗の頃と頼朝の頃の坂東武者とかもかなり違うらしい >>323
国力があるというより海の向こうにある攻めにくい鬱陶しい国やろな >>325
描かれるやろか微妙
九州から文が届いた程度で終わらせそう >>329
植民地ってか香港みたいな感じになるんかな 籠城してた蒙古兵に毒持って全滅させたらしいな
誉なさすぎやろ >>325
初回不意打ちとモンゴル定番の
残虐行為をして敵の戦意を挫くというアレ
尚、2回目に対してクレイジー達を
大同団結する力となってしまったもよう
2回目の東路軍は壱岐で上陸後
速攻でボコボコにされて撤退しとるからな >>319
何ヶ月も陸上戦で鎌倉武士に勝てずに海上を彷徨ってたら台風にあたって事だよね
あと数百、数千って数字のソースは? 歴史学は特に偉い学者の引退や死去でパワーバランス変わって学説まで変わる業界やからな
ゴッドハンドもほとんどの学者がおかしい言ってるのに後ろ盾に吉野ケ里遺跡を邪馬台国みたいに売り出した偉い教授がついとったので文句言えん雰囲気やったし >>332
勿論それもあるが実際強国として認識してたんよ
周辺国の中で人口多いのは知られていたし
貿易の規模も大きかったしな
お互い手を出さなければ怪我しないからな
だから日本相手には朝貢を求める意欲もあまりなくなぁなぁでお互いやってたからな 鎌倉幕府の年代変わったのも中身は酷いよな
頼朝は 別に征夷大将軍じゃなくても他二つの役職でもええでw って言ってたからノーカンノーカン!! って >>338
コ川吉宗、松平定信、徳川宗春、田沼意次の評価とかは
その時の経済政策でコロコロかわるしな >>338
コ川吉宗、松平定信、徳川宗春、田沼意次の評価とかは
その時の経済政策でコロコロかわるしな 元寇が幕府滅亡の原因の一つとか言われる割にはその後滅亡まで半世紀あるよな
結局恩賞無しの不満よりも、御家人が代を重ねるごとに貧しくなっていく田分けシステムにしてしまった事が
約140年くらいで限界が来るシステムだっただけに過ぎないんじゃねと >>331
これが真実だよ
史科に基づくモンゴル軍の鎌倉武士評
南宋遺臣の鄭思肖「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」
元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。」
王惲『汎海小録』
「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」 せっかく防塁築いたのにわざわざ防塁の前に出て名乗り上げた武士見て現場の士気ブチ上がったエピソードすこ 今とは当然地形も少し違うやろうけど
グーグル先生の航空写真で壱岐の島見てみ
どこに数万の兵と数百の船展開できる場所あるねんw
逆に追い返した結果から考えると鎌倉側は
前回の被害から一定数の常駐兵と救援体制整えてたと思われる >>345
海からのモンゴルってアイヌや台湾や国ですらない部族にも負けているんやろ
強いのか疑問だわ 宋は前漢みたいにお金でモンゴルにお帰りしてもらえなかったんやろうか?
いつものモンゴル兄さん作戦しなかったんか? PC版出たしツシマスレになるかと思ったらガチの歴史スレで誰もツシマネタ拾おうともしなくてワイは悲しいわ >>348
長江対岸の南宋も50年がかりで入念な対策してようやく勝利だからな 何で博多以外から上陸しなかったのとか言うが
当時の軍船の性能や、日本海沿岸地域の他の候補地考えたらむしろ全軍を博多にぶっこみで正解
(敦賀あたりですら距離が遠すぎてムリゲー。上陸できたとしてもすぐ飢え死に)
舐めプで碌に調査もせずに攻め込んできたとか言うがむしろよく日本の事調べてたと思うで >>353
ロバート秋山の印象が平安貴族に為りつつあるのはをかし
いやわろしやろか >>323
実際厩戸皇子の時の隋や、白村江の戦いの後の唐は日本侵攻計画を錬っていたらしいが
どっちも国内がそれどころでは無くなり実行されることは無かったらしいな
異常に好戦的な煬帝と同じく好戦的な推古天皇の間に挟まれて、親書を無くしたとか言って戦を回避した
小野妹子ってメチャクチャ有能だよな。新書を開けて読むことは許されないが何が書いてあるのかお察しだからな
更に言うと外交官が国書を無くすとか普通は死罪ヒッシの大失態なんだけど、何も言わずに黙って許す推古天皇も凄い
内心「ハハハこやつめw」とか思ってたんだろうか? >>355
フィールドシンキングつってな
こういうの結構大事なんやで なんつーか鎌倉武士って日本史の中でも深く触れちゃいけないキチガイ感あるよな >>354
2回目は散らして佐賀長崎にも来てるやろ >>195
この元兵3人組は江戸時代に加筆されたものやぞ
どう見てもこいつらだけタッチがおかしいし、そもそも自分の戦績アピールするために描かせた絵になんで自分がやられてる所描かせるねんと >>355
千年経ってるとはいえなんかいも大地震でも起きない限り大幅に地形は変わらんからな というか日本人って割と第二次世界大戦までは好戦的な民族だった気がしてる 元寇でここまで盛り上がれるお前たちすごいよ
博識だな >>361
結局停泊するにしても集合・停泊出来る場所なんて
限られてるから泊めれるトコに泊めたって感じやろな
鷹島の浜が他と比べて比較的広かったから
纏めて降りたとかそんな感じやないかな
とは言え、泳いで海を渡れる訳でもなく
鷹島であーだこーだしてる間に台風襲来 平将門という陰キャが散々虐められて最後にブチ切れてトンでも無い大暴れをしたみたいな2ちゃんの武勇伝コピペにありそうなアレ まあ武士は基本的に殺人が仕事で毎日殺人の練習してる職業だしな
江戸時代には公務員になったが なろう軍師様はすぐに「兵站」「兵站」と覚えたての単語を連呼する中学生レベルで戦略を語るが
敵の物資集積地点(元寇で言うなら大宰府)を狙うのが当時の兵站やからな
敵がいない所=何も無い所、だという事すらわからないのがお笑い
三国志とか戦国とかへのタイムスリップもので戦国武将に上から目線で兵站を語る陰キャとか腸引きずり出したいレベルで嫌いやわ 平将門は天皇家出身だし
京都から搾取されていた関東を独立させようとした関東の英雄だから…
神田明神は愛されてるし 白村江で唐と新羅にちょっかいかけたのによく何事も無く終わったよな
下手したらこの時日本1回滅んでたやろ 近代航海技術ができるまで対馬海峡超えて大軍の補給持たせるなんてまず無理やからな
なお白村江 ガチの歴史談義しとる中、たまにGhost of Tsushimaネタを書き込む奴いるのエエな >>369
陰キャ軍師様が好きな言葉3選
「兵站」「ドクトリン」あと一つは? 逆に日本の失敗としての文禄・慶長の役は
もっとクローズアップされるべきやと思ふ
戦国オールスター大感謝祭 使者の殺し方もどんどん流れ作業になっていってるから面白い
最後の方なんか博多に現れた瞬間に現地判断で斬って鎌倉には事後報告という雑さ 超広い草原をお馬で走るのが得意帝国
船のって山だらけの島に来て死亡
って残当よな というか半島からの侵攻に飛鳥時代から備えてたからな
白村江でまけてなのかそれ以前に半島おさめてたからからか知らんが、古代には福岡に当時世界最大の防衛陣地築いてるからな
防人としてうん百年も備えてた訳や
戦闘力よりもシステマチックな対応の方が評価されるべきや >>375
2回目は厳しくなるよってのは元寇と同じやね
あぁ、今は蒙古襲来だっけ >>377
まぁ言うて日本側も対馬壱岐その他被害出てるからな
文永の役の後からは首斬りげんまんがデフォになってて草 アンゴルモア「元寇の話です。史実考証も入れてます。主人公魅力あります。絵も上手くはないですが雑では無いです。ヒロインもそれなりに可愛いです。」
なぜ読まないのか 藤原隆家とかいう英雄
娘を入内させまくっただけの道長なんかよりよっぽど偉人やろ たまにある信長が本能寺から逃げのびてチンギス・ハンになった説好き 元寇でやりあったのに日元貿易はお互い積極的やったの草よな
まぁ元側が高い関税かけてそれが倭寇産むきっかけにもなったけども
お互い名を取らず実を取ろうと割り切ってたのホンマ東アジア的仕草 >>383
割と面白いんだけど初っ端で生首出したのは悪手だったんじゃないかと思う
あれ以上ってやっぱり戦としても衝撃あんまりないよね >>375
厳密には西国オールスターやな
文禄の役は完全にリサーチ不足で凍死、餓死、病死が続出で前に進めず一時休戦
2回目の慶長の役に関しては戦争終了した時点で日本軍は戦略的・戦術的目標をすべて達成していて翌年には朝鮮国の首都への大攻勢の予定があった
対する明朝鮮軍は11万人以上を動員した大攻勢をしかけたが
すべて敗退して、人員もなく兵糧もなく、秀吉が亡くなった後も、もしあのまま日本軍が駐留していたら、もうなんの手立てもなかったと朝鮮の記録に記されている
戦略も戦術も進退も完全に日本がイニシチアブをとっていた状態で秀吉が死んで戦争終了 明「室町幕府さん海賊対策やってーな
江戸幕府「明さん清さん海賊対策やってーな
草 >>371
日本人って失敗するとなんでも極端に改善してくる民族だよな
白村江で破れたことで以後千年以上に渡って防衛力を固めた結果、戦国や明治期まで列強が手を出せないぐらいの軍事国家になったし
太平洋戦争では輸送船沈められまくって負けたので、自衛隊は異常な程海上護衛に特化した軍隊になった
デフレ脱却出来ないのもオイルショックのトラウマのせいという説があるし、異常な程の国連中心主義は戦前の国連脱退からのトラウマが影響しているという説も
一時期原発というか高速増殖炉などを異常に推進していたのも、資源で日干しにされて戦争に突入していったトラウマだろうし
そりゃ現日本政府も対米従属外交と言われますわ 元と元寇カウンターパンチから始まった倭寇が北虜南倭となって明を苦しめ続けるんやね >>375
名護屋城という名古屋のパクリみたいな城 >>391
いうほど改善できてるか?
白村江以降作った城郭は使わないで風化してったし
刀伊の入寇もなんか朝廷アワアワしてたら藤原隆家がたまたま頑張ってくれたけど正直無策やったやん
現代は現代で今この現状改善できてるか? >>389
やるぞやるぞとハッタリカマしてただけで日本の補給の方が限界で撤退に追い込まれるのは時間の問題だったのが実情 >>375
文禄慶長の役が無ければ明が滅びることは無く、清も存在せず、19世紀に中共みたいな国家が誕生して
日本が滅んでいたかも知れ無いし
日本の成功例としてあまり批判の無い日露戦争も、この時にロシアの反政府戦力を援助しすぎたせいでロマノフ王朝が倒れて
人類史上最大の悪魔である共産主義国家を生み出してしまったので、何が良く何が悪い結果となるかはホントに分からん
消滅寸前だった中国共産党が国共合作で生き返って、日本が一号作戦で国民党をぶったたいたので戦後中華人民共和国が誕生したし
日本ってよくよく考えるとろくな事してないな >>393
53人の日本人が日本刀を持って中国南部を80日間荒らしまわって明兵5000人殺害するとかいうヤバい事件はもっと知られていい 当時の技術じゃ千人くらい乗る大きい船とか作れなかったんかな 敵さんが誉ある戦いをしなかったから、こちらも誉を捨てたまでやぞ 博多の制圧に成功していたとしてもそこから東進し続ける過程で結局力尽きそう
九州に傀儡国家でも樹立して日本分断させて半世紀くらいはかかる気の長い計画にしないと無理やな >>400
明が滅んだのは50年後でその間にやばいイベントが色々起こって上書きされてるから秀吉の影響は毛ほどの物や >>396
白村江でガチガチに防人を固めたので明治まで対外戦争が起こらなかったとも言える
というかそんな単純な話では無く、改善という名目でも複雑な世の中極端な事をすると
どこかにほころびが出るわけで、改善=いい事、という文脈で話してるわけでは無いんだけどな
LGBTだってフェミニズムだってマルクス主義だって最初は良かれと思って改善した結果がアレなんだろうし >>362
そら「楽勝でした!」よりも「辛勝したンゴ……部下たちも傷だらけや、労わってあげてクレメンス……」のほうが苦労の分恩賞増えるかもしれんし >>400
原因の一つではあるけど文禄慶長の役の50年以上後やからな明が滅びたの
それが無ければもっと後まで続いたかはわからん >>398
か実際に日本と朝鮮の記録両方で翌年の日本の大規模侵攻の計画があった事が記されてる
あとハッタリってソースはあるの? 文禄の役の50年以上後、だったな
まぁ言いたいことは変わらんけど 元寇の影響で鎌倉幕府が崩壊したっていうけど元寇は一回目が1274年(文永の役)、2回目が1281年(弘安の役)。
鎌倉幕府の滅亡は50年後の1333年だしな
簡単に国って崩れないよね 鷹島掃討戦ってホンマにあったんかなぁ
置き去りにされた10万人の元軍兵皆殺しって並大抵の労力やなくない? 僧侶「祈祷でモンゴル撃退できたから恩賞くれ!」
これ実話なん? >>412
10万人を管理して養う方が大変じゃ無い?
利用価値のないやつ以外殺した方が早い >>398
補給が限界だったのは陸路で長距離運ぶしか無かった平壌の戦いとかの話で
戦争全期間を通じて半島全体で海路での補給が限界になったという事実は無い
まさか13隻で2万隻を撃沈した李舜臣みたいなお伽噺が史実だと思ってるなんて事は無いと思うが
朝鮮水軍総総司令官に嫌われていた李舜臣は基本大艦隊を率いた事は無く、手持ちの少数兵力で出来たのは
日本軍の主力がいない場所でのゲリラ戦だけ
無論、それが出来た李舜臣の戦術能力は凄いと思うが、戦局に影響がある様なレベルでは無い >>416
あの炸裂するてつほうの絵ってコピペですよ >>417
数万人を無事に撤退させた水軍はもっと評価されるべき >>417
李舜臣が日本軍の補給線を寸断したという神話を信じてるのかもしれない
攻勢限界だのは妄想の域に過ぎないのにな >>345
他のはわからんけど鄭思肖のは誇張入ってるよね
帰ったら主に殺されるとかどうしてわかるんだ
敵である鎌倉武士を実際より大きく報告して侵略が上手くいってない言い訳でもあるんだら モンゴル軍曰く鎌倉武士は狂戦士なんだと
矢の雨に臆することなく突撃してた模様 >>420
イスンシン最終的に島津に土左衛門にされたのにな 李舜臣以外は日本軍に秒で殲滅されるか、出てきてはボッコボコにやられるか、勝手に仲間割れしたり逃げたりして
ろくなエピソードが無いので、13隻を率いて小規模な戦いに勝った李舜臣にすがりついて針小棒大するのは分からないでも無い
むしろ可哀想 正直これでやたらとホルホルするのもかなりキツいけどな
モンゴル軍の強みは騎馬であって海を渡る以上騎兵が碌に用意出来ない
モンゴル軍は大半が宋朝鮮の民で相手は大陸席巻した最強モンゴル軍とは別物
武士がそれなりに頑張ったのは事実やろうけど一応台風で壊滅したのは事実やし世界最強の軍団より強くて恐ろしい!みたいなのは言い過ぎやと思うわ >>417
陸路の補給が上手く行かない時点で首都侵攻とか本気で考えてたなら噴飯物だからな
仮に取っても維持できない ワイは変な思想は持ってないけど、てつはうの絵とかいう明らかに合成っぽいモンを教科書に載せてるのは自虐史観云々言いたくなるわ >>423
主に殺されるは分からんが300年後の朝鮮出兵で日本軍と戦った明の将軍・頗貴も日本軍の獰猛さに言及しとる
「宣祖実録」
「倭(日本人)の性質は甚だ獰猛で、先鋒が殺されても後退しない。自分は五十五歳で幾百の戦いを経験しあらゆる民族と戦ったが、倭奴ほど獰猛なものを知らない。」
など 元寇の鎌倉武士団打線(最新の研究)
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた
2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた
3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた
4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた
5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)
6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた
7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた
8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた
9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた >>425
まあ戦争全期間を通じて、日本の大名級を討ち取ったのは李舜臣だけなので
そこまで貶めるような人物でも無いと思う
大名級と言っても来島通総という雑魚だけど、あれだけの大戦争で死んだのはコイツだけだからな
個人的には朝鮮人のスパイ疑惑のある小西行長ぐらいは死んでいて欲しかったが
コイツは碧蹄館でも醜態晒すし >>383
読んだけどこれ高麗の描写について連載当時は結構荒れたんじゃないの? 勝ってもいない朝鮮の役で勝つ予定だったとかイキってるのはさすがに笑うわ >>431
「半弓が巧みで馬上でも自由自在に射る、日本の上手な射手などの敵うところではない」「塀を引き倒そうとする敵を片っ端から撃ち殺しても五十人が五、六人になるまで網に取りついて引っ張っている」(松井物語)
が日本軍から見た明軍らしいから結局誇張とは限らんけどそれっぽく上に報告するのはセオリーなんじゃないかな
現場見てない人にそんな奴らと戦って勝ったら褒められるし負けても言い訳材料にはなる 1回目は台風じゃなくて普通に偵察だけして帰ったんよな
季節的にも貴族の日記的にも1回目の時に台風が来たとは考えにくいとかで >>433
一応中川秀政も大名級で討ち取られてはいるが
こっちは合戦じゃないからノーカンか? 今の大河見てると藤原隆家こいつで大丈夫か?ってなるくらい無能なんだが >>434
別に高麗が過剰に情けなく描かれている訳でも無いし
敵側は基本力押しでたいした描写も駆け引きも無く、淡々と対馬の日本軍が最初から最後まで負け続けるのが第一部だからな
高麗兵やモンゴル兵の残虐さも非常にマイルド
(別に批判しているわけでは無く、漫画だから当たり前だし普通に面白い) >>437
別にこれ以外にも当時の宣教師や朝鮮人も日本人の獰猛さや勇猛さに多く言及してるよ
倭寇とか鎌倉武士よりヤバい記録がいっぱいあるからね
例えば日本人傭兵を雇っていたクーン(J.P.Coen)総督は、1628年にアムステルダムの上官に対して、賞賛をこめて「日本人傭兵は悪魔のように戦う」と書き送っている 武士「実力で勝ちました」
日本「う〜ん、神風のおかげってことにしよう」
日本兵「なんのせいかもありませんでした」
日本「大日本帝国大勝利」
天邪鬼は日本のお家芸やね 宋の船が台風ぐらいで沈むわけないので突貫建造の手抜き建造やったんやろな >>445
再来年の秀長主人公大河でも悪者に描いたらキレるわ >>439
あれあまりにも情けない最後だったので家督取消になったんじゃなかったっけ? >>445
最近は朝鮮出兵はとち狂ったボケ老人の暴走という描かれ方で定着してるやろ
コロンブスと同じで美化はNGの悪党 >>444
河川用の船が大量に混じってたんじゃないかって推測もある >>448
別に美化しろとは言わんけど、
当時の世界情勢的に他国への侵略ってそんなおかしな事やないし、これをボケ老人の暴走で片付けるのは歴史に対してリスペクトがなさ過ぎるやん >>448
むしろそんな描き方しかしないのがおかしいやろ
NHKは絶対に朝鮮出兵がなぜ行われたのか裏の理由を描こうとしない
全部秀吉が暴走しただけ!で済まそうとしてる >>446
いいことは主人公のおかげ
悪いことは秀吉のせい
こうなりそう
軍師官兵衛のときもこんな感じだったし >>447
なりかけた
ただ賤ヶ岳で奮戦して戦死した親父の功績に免じて弟が後を継ぐ事が許された >>444
高麗「生意気な日本締めちゃいましょうぜアニキwww」
モンゴルアニキ「せやな、じゃあお前3ヶ月で3000隻作れ」
高麗「」 >>437
朝鮮出兵で戦った日本軍は下馬戦闘が常態化していた西国軍で明軍は遊牧民とバチバチに戦ってた北方の精鋭騎兵だから馬上での弓の扱いは明軍の方が上だろうね NHKは何があっても「朝鮮出兵が行われた理由」には触れようとしないからな
・内戦で溢れかえった軍事力を外にやるため
・明の海禁政策に対して貿易権を勝ち取るため
・当時の世界的貿易都市だった寧波で貿易して利益を上げるため
こういう理由は一切触れずにとにかく全部秀吉が暴走しただけ!で終わらせてる >>442
海外に渡った日本武士は事情も特殊だからなぁ
戦で価値が無いと見做されると帰る場所も行く場所も無くなる人らなんだから必死にやるしかない
こいつらを戦国時代の平均として考えるわけにはいかないでしょう
別に戦国時代の武士が弱かったとか煽りたいわけじゃないでマジで >>402
運ぶことはできるけど
航海のリスクが今とはケタ違いに大きいから
一度に大人数戦力失うこと考えたらそこまで巨大化できなかった 中川秀政自身は播磨三木13万石の大名
秀成への継承は何とか認められたものの知行は半減
後に豊後岡7万石に移されて幕末まで中川家は続いてる 捕虜を盾にしたり
船にくくりつけたりしても
鎌倉武士がお構いなしに捕虜ごと殺しに来て
モンゴル兵があいつら人の心無いんかってなった話好き
鎌倉武士があいつら捕虜盾にするの嫌がるんじゃねって
逆に盾にして攻めるたりしたりしてさ うろ覚えだけどクソデカ弓引く兵士おったんやろ?
甲冑着たまま泳いで船に乗り込んだとかそんな話も聞いたわ >>437
結局結果が全てだよな
碧蹄館では3000ぐらいの小早川立花隊に数万で襲いかかってボッコボコにされ
泗川の戦いでは10倍以上の明軍を少数の島津軍がボッコボコ
加藤清正に至ってはあまりにも朝鮮軍が弱すぎて手応えが無いので、特に意味も無くオランカイまで進軍して
満洲人に喧嘩売る始末 >>442
日本人は任務や職務つまり仕事を尊いものと思い込んでて
仕事だからしょうがない仕事だからやりきるって感情と切り離すから怖いねん
よく宗教画ないっていうけど仕事が宗教みたいなものやと思う >>462
それはその通りやね
誰がどう言ってたかより結果の方がわかりやすい >>460
ここまで残虐な事やったらアイツらビビりまくるだろうな
と考えて船上で高みの見物してるモンゴル軍に対して
腐ったモンゴル兵の死体にウンコ塗りたくって投石機で船に投げ込んでくる始末 >>462
朝鮮出兵は失敗に終わって豊臣政権は間もなく滅亡したというのが結果や >>465
人間の死体は小柄でも40~50kgはある上に丸くもない
そんなのを投げ込める投石機が日本にあったら普通に石撃ち込んでます…… >>8
学校においてある日本史の漫画がそんな感じの描き方やったんや 時宗はオリキャラに「戦は嫌じゃ」連呼させて、船が沈没して溺れる元軍兵士を救助するという
スイーツ大河の魁やったな 豊臣秀吉の唐入りとかだけじゃなく
当時の世界は大航海時代だからな
日本もその潮流に乗ってて海外進出してるし
東南アジア各地には日本人町が幾つも出来てたの
徳川の海禁・鎖国政策のせいで日本人の海外拠点は全部干からびちゃった
日本人のご先祖様の一部の血が今の東南アジアの人に流れてるかもだけどねw >>466
まあ豊臣家を滅ぼした徳川家康も豊臣家の五大老なんだけどな 日本人が仕事する時の冷酷さったらドン引きやわ
ビッグモーターとやり玉にあげられたけど
どの業種も同じような事やってるわ
客が損するって知ってながら勧めてくるやん 日本ではカタパルトなかったんだろ
ボウガンもなかった >>457
慶長の役で捕虜になった李氏朝鮮の官人・姜コウが書いた看羊録に面白いことが書いてある
姜コウは、倭将、倭卒に質問した
「生を好み、死を憎むのは人も生き物も同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を憎むのは、一体どうしてなのか」と問うと、
「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪も民衆に属するものはない。だから、将官に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。ひとたび将官の家に身を寄せてしまえば、この体も自分の体ではない。少しでも胆力に欠けると見なされてしまったら、どこへ行っても容れられない。佩刀が良くなければ、人間扱いされない。刀傷が顔の面にあれば、勇気がある者と思い禄を得る。耳の後ろにあれば、逃げ回るだけの者と見なされ排斥される。それだから、食に欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くすほうがましである。力戦するのは、実は自分自身のために計ってそうするのであって、何も主(公)のために計ってするのではない。」
戦国時代の日本人はそうしないと生きていけないのかもしれない >>472
まあ牛の死体を投げ込んだ云々は、俺も臓物をバラ蒔いたのが誇張されたのでは?と思ってるが
モンゴルの回回砲(投石機)を日本軍が鹵獲して使ったとしてもおかしくは無いかなと
回回砲を日本攻めの時に持ち込んだと言う記録は見た事が無いが
まあ冷静に考えたら、ペスト患者を城塞都市に回回砲で打ち込んだモンゴル軍の残虐さには適わないわな >>472
商売敵や客だけじゃなく身内(目下に限る)にすら容赦せんからなあ…
日本人はもう滅びるべき罪業を重ねすぎてる >>474
今と何にも変わんなくて草も枯れ果てるわ
安給料でこき使い無条件の忠誠心は要求してくる民間企業も公的機関も何にも変わってねえ >>474
なるほどなぁ
勇猛さは一種の同調圧力みたいなもんか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています