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●井沢元彦の俗流歴史本『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾

・そもそも信長自身が熱田衆、津島衆、根来寺といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、延暦寺の荘園(山門領)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図り朝廷に訴え、朝廷は荘園の返還を求める。しかし信長は無視し占領が続く。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。また信長は延暦寺にただ中立を求めたのではなく「織田に加勢すれば荘園を返還する」という書状を出した。
・足利義昭が織田と浅井・朝倉の和睦を仲介した志賀の陣では延暦寺も和睦の対象だった。にも関わらず比叡山焼き討ちが行われ義昭は面目を潰され、この件が義昭と信長の関係悪化に結びついたとされる。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい/焼き討ちはごく小規模だった」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本の街は物流の要衝として栄え僧侶以外の町民も多く暮らしていたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺派(一向一揆)との戦いも、信長の大坂への侵攻が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の矢銭も支払い平和を望んでいた。
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。