天正十四年(一五八六)から翌年にかけて九州征伐が行われ、秀吉は島津氏に圧勝した。戦場となった豊後では百姓らが捕縛され、九州各地の大名の領国へ連れ去られた。この点も取り上げたとおりである。

そして、捕縛された人々は労働に使役させられるか、奴隷として売買された。秀吉は人の移動によって耕作地が荒れ果て、戦後復興が困難になることを危惧し、諸大名に対して人の連れ去りや売買を禁止した。そこでは、奴隷商人が関与していたのは疑いなく、日本人の奴隷商人だけでなく、ポルトガル商人の姿もあった。

天正十五年(一五八七)四月、島津氏を降参に追い込んだ秀吉は、意気揚々と博多に凱旋がいせんした。そこで、ついに問題が発生する。

秀吉が目の当たりにしたのは、日本人奴隷が次々とポルトガルの商船に乗せられ、運搬される風景だった。そのような事態を受けて、秀吉は強い決意を持って、人身売買の問題に取り組んだ。


やっぱ奴隷連れてくるんじゃなくて連れ去られてんじゃねーか