平安・鎌倉・室町・戦国時代「仏僧はキチガイの集団」今「お坊さん皆いい人」
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1それでも動く名無し 警備員[Lv.15][新]
2024/09/21(土) 06:23:55.03ID:d7v3bIHc0 なんでなん?
23それでも動く名無し 警備員[Lv.12]
2024/09/21(土) 07:05:50.39ID:17FOd6l40 キチガイどころが東大やろ
25それでも動く名無し 警備員[Lv.4]
2024/09/21(土) 07:19:47.52ID:loCoOMmF026それでも動く名無し 警備員[Lv.7][新芽]
2024/09/21(土) 07:21:33.75ID:J1muK6fM0 まず宗教自体が古来から伝わる集団扇動洗脳だし
27それでも動く名無し 警備員[Lv.6]
2024/09/21(土) 07:23:09.99ID:hlgh4Lw50 気に入らない事があるとすぐに役所に「強訴だあ!」
とカチコミかけてくるガガイ集団
とカチコミかけてくるガガイ集団
28それでも動く名無し 警備員[Lv.12][芽]
2024/09/21(土) 07:25:40.52ID:jRF0Lhpb0 中世までの仏教って今のイスラエルみたいなもんやったからな
29それでも動く名無し 警備員[Lv.11][新芽]
2024/09/21(土) 07:28:41.22ID:ZF2EJIoI0 僧兵とか強訴とかを調べるとコイツらゴミだなとは思う
30それでも動く名無し 警備員[Lv.22][苗]
2024/09/21(土) 07:35:54.19ID:wUDGqNhO0 >>5
●トンデモ作家・井沢元彦の俗流歴史本『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも信長自身が根来寺、熱田衆、津島衆といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、延暦寺の荘園(山門領)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図り朝廷に訴え、朝廷は荘園の返還を求める。しかし信長は無視し占領が続く。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。また信長は延暦寺にただ中立を求めたのではなく「織田に加勢(!)すれば荘園を返還する」という書状を出した。
・室町幕府将軍の足利義昭が織田と浅井・朝倉の和睦を仲介した志賀の陣では延暦寺も和睦の対象だった。にも関わらず比叡山焼き討ちが行われ義昭は面目を潰され、この件が義昭と信長の関係悪化に結びついたとされる。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい/焼き討ちはごく小規模だった」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本の街は物流の要衝として栄え僧侶以外の町民も多く暮らしていたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺(一向一揆)との戦いも、信長の大坂への侵攻が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の矢銭も支払い平和を望んでいた。
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。
…つまり信長は別に現代的な「政教分離」の考えなど持ち合わせず、自分の都合に応じて宗教勢力と手を組んだり敵対していただけに過ぎない。
●トンデモ作家・井沢元彦の俗流歴史本『逆説の日本史』で広まった「織田信長は"政教分離"を推進した」論の矛盾
・そもそも信長自身が根来寺、熱田衆、津島衆といった宗教勢力の軍事力を利用し合戦に動員させている。
・信長による比叡山焼き討ちは信長が上洛以降、延暦寺の荘園(山門領)を不当占拠した事が発端。
延暦寺は当初平和的解決を図り朝廷に訴え、朝廷は荘園の返還を求める。しかし信長は無視し占領が続く。この結果信長と延暦寺の関係は悪化し後に浅井・朝倉が比叡山に陣を構える遠因となった。また信長は延暦寺にただ中立を求めたのではなく「織田に加勢(!)すれば荘園を返還する」という書状を出した。
・室町幕府将軍の足利義昭が織田と浅井・朝倉の和睦を仲介した志賀の陣では延暦寺も和睦の対象だった。にも関わらず比叡山焼き討ちが行われ義昭は面目を潰され、この件が義昭と信長の関係悪化に結びついたとされる。
・「比叡山に女子供がいたのはおかしい/焼き討ちはごく小規模だった」⇒「境内都市」を知らないニワカ。比叡山の麓の坂本の街は物流の要衝として栄え僧侶以外の町民も多く暮らしていたが、織田軍の虐殺の中心地となり灰燼に帰した。
・石山合戦や伊勢長島の虐殺で知られる本願寺(一向一揆)との戦いも、信長の大坂への侵攻が発端。それまで本願寺は信長が要求する多額の矢銭も支払い平和を望んでいた。
・越前平泉寺では織田に協力的な派閥をそそのかし、武装解除どころか武力抗争を勃発させる。
・また信長は自分に恭順した勢力に対しては関所や座といった既得権益を認め、寺社等が関税を徴収してきた「京の七口」は信長の京支配後も存続していた。こうした関所が廃止されたのは豊臣政権の時代。
…つまり信長は別に現代的な「政教分離」の考えなど持ち合わせず、自分の都合に応じて宗教勢力と手を組んだり敵対していただけに過ぎない。
31それでも動く名無し 警備員[Lv.22][苗]
2024/09/21(土) 07:36:17.69ID:wUDGqNhO0 ●織田信長の史実に最も近い肖像画
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に"贋作"であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
信長の肖像は従来緑色の服装の肖像画(長興寺蔵)が有名で教科書にも載ってきたが
近年の歴史研究の書籍ではこの肖像画(大徳寺蔵)の採用が増えている
http://www.shouzou.com/mag/p/daitokuji700px.jpg
https://pbs.twimg.com/media/ElauVpeU0AU2VEr.jpg
大徳寺の肖像は生前の信長に面会した絵師の狩野永徳本人が制作したものでより写実性に優れ、
信長は丸顔ではなく痩せた面長な顔であったことが伺える。
(長興寺蔵)は永徳が安土に赴く間実家の留守を預かった弟・元秀が(大徳寺蔵)を模写して描いたものと考えられ、他に残る信長の肖像もこれらの模写と考えられる。つまり全ての信長肖像のオリジナルがこの作品である。
また一部で"宣教師が描いた信長"と流布される写真のような「肖像画」は、当時の西欧にこのような画風は存在せず確実に"贋作"であり、まともな書籍には採用されていない。
作品には明治創業の写真館の所有印が残り、信長の肖像画からイメージして作成したモンタージュの類いだろう。
32それでも動く名無し 警備員[Lv.22][苗]
2024/09/21(土) 07:36:59.14ID:wUDGqNhO0 ●「楽市楽座」の実態
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育においても「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
岐阜から浅井氏や朝倉氏滅亡後の越前・近江まで、薪から唐物まで各地の様々な商品を扱う座を信長が安堵した書状が幾つも現存する。
それどころか天正七年には近江で「建部油座以外の者が油を販売したら成敗(処刑)する」という禁制まで出しており、自由経済どころか徹底した規制ぶりである。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させている。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
平泉澄や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行(本名:小名木伸太郎、元マルチ商法社長)らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
また信長は畿内の都市や本願寺に対し多額の軍事費(矢銭)を要求し、支払いを拒否した尼崎の街は焼き討ちされた。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。
「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育においても「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。
そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)
そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
岐阜から浅井氏や朝倉氏滅亡後の越前・近江まで、薪から唐物まで各地の様々な商品を扱う座を信長が安堵した書状が幾つも現存する。
それどころか天正七年には近江で「建部油座以外の者が油を販売したら成敗(処刑)する」という禁制まで出しており、自由経済どころか徹底した規制ぶりである。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。
また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させている。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。
平泉澄や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行(本名:小名木伸太郎、元マルチ商法社長)らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
また信長は畿内の都市や本願寺に対し多額の軍事費(矢銭)を要求し、支払いを拒否した尼崎の街は焼き討ちされた。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役(ただ働き)といった多くの負担が強いられた。
33それでも動く名無し 警備員[Lv.22][苗]
2024/09/21(土) 07:37:39.54ID:wUDGqNhO0 ●「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の仕事は普請等で直接戦闘に参加する機会は少なかった。
また畿内史に詳しい天野忠幸氏らは荒木村重ら幾人もの武将が信長に謀反した原因の一つとして、信長の家臣として要求される際限なき軍役への疲弊・不満を挙げている。
呉座勇一氏は織田家を「ブラック企業」と例えた上でその急拡大と謀反の頻発はセットであり
明智光秀とその他信長に謀反した武将達との違いは信長を直接討てる機会があったか否かの違いに過ぎなかった、と論説している。
90年代に大ヒットした井沢元彦のトンデモ歴史ファンタジー「逆説の日本史」によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が世間に広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料(「信長公記」中の記述)とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する後北条氏の百姓総動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓の仕事は普請等で直接戦闘に参加する機会は少なかった。
また畿内史に詳しい天野忠幸氏らは荒木村重ら幾人もの武将が信長に謀反した原因の一つとして、信長の家臣として要求される際限なき軍役への疲弊・不満を挙げている。
呉座勇一氏は織田家を「ブラック企業」と例えた上でその急拡大と謀反の頻発はセットであり
明智光秀とその他信長に謀反した武将達との違いは信長を直接討てる機会があったか否かの違いに過ぎなかった、と論説している。
35それでも動く名無し 警備員[Lv.8][芽]
2024/09/21(土) 08:00:42.96ID:i57lAX5Wd■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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