過酷な登板に加え、当時の誤ったトレーニング・リハビリテーション方法(投球直後に肩を温めていた)に
より肩を痛めたうえに肘も故障し[15]、3年目の1963年からは球威が落ちて10勝しか挙げられず、
1964年は6勝と調子を落とした。

1965年の開幕を控えたころに西沢道夫監督から野手転向の話を受けた[17]が、当時の権藤は1年目の成功体験が
邪魔して周囲のアドバイスが素直に受け入れられなかった[17]。西沢から強いリストを生かした打撃の可能性を
評価し野手転向の勧め[17]に従って、内野手に転向し、同年は伊藤竜彦らと三塁手のレギュラーを争い81試合に
出場。1966年には開幕から2番・遊撃手として起用されるが、打撃の低迷が続く。1967年には主に三塁手として
80試合に先発出場し、セ・リーグ最多犠打を記録。ようやく打撃の何たるかを掴みかけたと感じたが、
この3年間で西沢の期待に応えたといえるほどの結果は残せなかった[17]。

ショートとサードもやってて草