赤穂浪士は討ち入り不参加でも切腹させられる地獄

その後も大石一派には接触せず、4月19日の開城後すぐに赤穂を離れ、実家である江戸の兄・忠郷の屋敷に拠った。
しかし元禄15年(1702年)12月14日に大石良雄らの吉良邸討ち入りが決行されると、
忠郷は弟の直之に対し「1000石取りの重臣でありながら、義挙に加わらなかったのは何事か、桜井松平家の恥さらしである」と、直之を罵った上、
同年12月28日に弟松平忠輝(旗本300石)の介錯で直之を強制的に殉死切腹させた[2]。享年24。