●「楽市楽座」の実態

「楽市楽座」の通説は皇国史観で有名な平泉澄が戦前期に捏造して以来、歴史教育においても「鎖国」や「士農工商」同様に史実と乖離した通説が定着してしまった。
歴史学者・長澤信樹氏の『楽市楽座はあったのか』では史料を丁寧に紐解きながらその実態を解説している。

そもそも「楽市」とはもっぱら諸役免除(納税や夫役の免除)を認可された市場を意味する。
誤解が多いが「誰でも自由に商売が行える"フリー"マーケット」などではない。 
織田氏に限らず六角氏や今川氏など各地の大名が発行した「楽市令」とはもっぱら諸役免除に加え押売・押買など不当行為の禁止を明記し市場の安全を保証する内容で共通している。
(なお信長は京において「名物狩り」という押買行為を行っている)

そして信長の「楽座令」とは座の廃止どころか座の権益を認めた上で税(座役銭)を軽減するという座の優遇政策だった。
本拠地時期の岐阜から浅井・朝倉氏滅亡後の越前・近江まで、薪から唐物まで各地の様々な商品を扱う座を信長が安堵した書状が幾つも現存する。
それどころか信長晩年の天正七年には近江で「建部油座以外の者が油を販売したら成敗(処刑)する」という禁制まで出しており、自由経済どころか徹底した規制ぶりである。
実際の座の特権廃止にあたる「破座」令は後年の豊臣政権下で行われた。

また関所についても信長は他の大名と同じく支配拡大で不要になった軍事関は廃止しても
関税を徴収する商業関は多くが存続し、恭順した勢力の既得権益が保証された事例も多い。
例えば信長支配後の京では関税徴収の先駆けである「京の七口」が存続しており、
琵琶湖においては堅田衆が徴収する関税を織田に上納させている。
こうした信長支配後も存続した商業関は豊臣政権下で廃止が進んだ。

平泉澄や井沢元彦の影響で定着し、百田尚樹や小名木善行(本名:小名木伸太郎、元マルチ商法社長)らのトンデモ作家が再生産する「織田信長=既得権益と戦い革新的な政策で新たな時代を築いた天才・英傑」という「信長英雄史観」は歴史研究の世界ではとっくに時代遅れ。
むしろ「最初の天下人」と呼ばれる三好氏の凋落後の畿内における既得権益との癒着、支配地への過酷な課役、京の地子銭の復活など前時代的な方針こそが織田信長の権力拡大に多いに寄与したとされる。
また信長は畿内の都市や本願寺に対し多額の軍事費(矢銭)を要求し、支払いを拒否した尼崎の街は焼き討ちされた。
かの安土城も建設に際しては地元の近江国に一国課役が課され、近江の民衆には金品支出や夫役など多くの負担が強いられた。