そもそも一連の騒動の発端は今年3月、このA氏が告発文をメディアや県議に送付したことだった。問題の深層を知るには、A氏の人物像、そしてなぜ告発、自殺に至ったのかにも目を向ける必要がある。

京都大学を1987年に卒業したA氏は、エリートコースとされる人事部門で順調に出世していった。

井戸氏からの信頼は厚く、2021年7月の兵庫県知事選の直前、同年3月の人事では、県の人事政策トップの管理局長として采配を振った。その年の4月に西播磨県民局長に異動したのも「大仕事を成し遂げて、井戸さんからの『お礼』的な人事」(県職員)だったという。

井戸県政においては、西播磨県民局長は井戸氏の出身地たつの市を管轄する重要ポストだった。「A氏は定年までに県庁に戻って特別職の人事委員長に就き、キャリアを終えるつもりでいたようだ」(前出の県職員)という。

しかし程なく、「栄転」のはずの県民局長就任が、A氏にとって「左遷」に変わる。齋藤氏が当選したのだ。

「井戸さんの後継である金沢候補が勝つ前提でいたA氏にとっては、驚天動地の事態だったのではないか。なにしろ管理局長として仕切った人事も、井戸さんに『金沢が仕事をしやすい配置にしてくれ』とお願いされてやったものだったから」(同前)

齋藤氏は就任後、自身に近い改革派の幹部職員を集めて「新県政推進室」を発足させた。A氏もじきに本庁へ呼び戻され、これに加わるとみられていたが、大方の予想に反して西播磨県民局長に残留することになったのである。

A氏は定年を間近に控えていた。前出の県職員はこう話す。

「定年時の人事が決まる昨年後半以降、Aさんから人事課に『自分の人事はどうなりそうか』と問い合わせが来ていたようです。

人事畑のエースを自任していた彼からすれば、定年時には本庁で勤務したいと考えていたようですが、県民局長として県庁生活を終えることになった。彼はしばしば『今の人事を仕切っている奴らは低学歴集団だ』といった不満を漏らすようになりました」

A氏は勤め先で使用していた業務用パソコンで告発文を作成したことが明らかになっている。じつはその中には、A氏の私的な「倫理上問題のある記録」のデータも保存されており、百条委員会からパソコンの提出を求められたA氏は、そのデータの公開を避けて欲しいと委員会側に嘆願していたという。

A氏の真意はわからないにしても、こうした経緯が強いストレスになっていたことは間違いなさそうだ。