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神戸市須磨(現・須磨区)
須磨、特に須磨海岸は大正時代から昭和時代初期にかけて自殺の名所として知られ、海岸や鉄道の線路沿いには自殺防止の「一寸待て(ちょっと待て)」という立札が設置されていた。
社会運動家の賀川豊彦や、「一寸待て」の立札を1919年(大正8年)に須磨に設置した神戸婦人同情会の城ノブによると、自殺の名所化したきっかけは「須磨の仇浪」と呼ばれる母子心中事件である。これは1915年(大正4年)12月、嫁姑問題に悩んだ若い女性が、須磨沖を運行していた連絡船から2歳の娘を道連れに投身自殺したというものである。羽様荷香の小説『須磨の仇浪』をはじめとして芝居、映画、流行歌、のぞきからくりなどがこの事件を盛んに題材として取り上げ、須磨での模倣自殺の多発を招いた。
1928年(昭和3年)3月の新聞記事によれば、須磨では1926年(大正15年/昭和元年)に自殺者50人と自殺未遂者67人が発生し、翌1927年(昭和2年)には自殺者67人と自殺未遂者127人が発生した。1929年(昭和4年)9月の新聞記事によれば、その時点での須磨での年間自殺者は37人で、前年の1928年よりは少ないと報じられている。
またこの記事では、女性は入水自殺が多く、男性は鉄道への飛び込み自殺が多いと分析されている。