「2年の春までは、確かに調子は良かったんです」

 島袋は当時の記憶を掘り起こし、そう呟いた。この大学2年の春季リ―グが、島袋の野球人生のターニングポイントと見る向きも多い。

 大学1年の秋季リーグ終了後、中央大野球部は高橋善正(元巨人)が監督を退き、秋田秀幸(元中日)が新監督に就任した。

 2012年、秋田監督の初陣となる春のリーグ戦で島袋は2年連続開幕投手に選ばれ、強烈なインパクトを残す。東洋大を相手に延長15回をひとりで投げ抜き、チームを3対2のサヨナラ勝ちに導いた。だが、要した球数は226球、奪三振数は21。言うまでもなく、ひとりの投手が1試合で投げる球数ではない。

「センバツ決勝の日大三高戦で198球を投げたことはありますけど、200球超えは初めてでしたね。あくまでも自分の意思で投げました。次の試合も、その次の日大戦も重要でしたし、調子が良かったので投げました。でも、ここで肘がぶっ飛びました」

 中1日で先発し、7回92球1失点で勝利。さらに中6日で日大戦にも先発し、8回122球、4失点で3連勝。だが、ここで島袋の肘は悲鳴をあげた。

 左肘内側側副靭帯に血腫ができており、すぐにドクターストップがかかった。全治約5カ月。その間はノースロー調整を強いられ、ブルペンに入ったのは怪我から4カ月後の8月下旬である。

 島袋は開幕から10日間の3試合で30イニング、計440球を投げたことになる。これは現代野球ではありえない数字だ。当然ながら、「秋田監督の酷使によって島袋は壊れた」と考える野球ファンは多い。