介護疲れと生活苦で母を殺害。温情判決下され再起誓うも8年後に自殺

生活保護を受けることができなかったっことで事態は益々悪化していった

そして、いよいよ母と心中することに。
寒空の下、あたりが暗くなるまで、Aは母親を乗せた車椅子を押しながら、Aが生まれ育った京都市中心部の街中や鴨川のほとりをグルグルとさまよい続けた。午後7時ごろ、母親が「家に戻ろうか」と言った。アパートの前に来たものの、部屋には戻れない。Aは死に場所を探す中、殺害現場となった、桂川の河川敷に行き着いた…

2月1日の朝6時、Aは母親と最後に交わした会話、

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」

「そうか、あかんのか…一緒やで。お前と一緒や」

「すまんな。すまんな」

「こっちに来い…お前はわしの子や。わしがやったる」

という状況から、Aは「承諾殺人」などの罪に問われた。Aは京都地裁での裁判の中、「母の命を奪ってしまいましたが、生まれ変わるのであれば、もう1度、母の子として生まれたい」と語るなど、母親への深い愛情、自身が犯した罪を悔いていた。こうしたことから2006年7月に下された判決は、懲役2年6月、執行猶予3年の「温情判決」だった。その際、「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と述べ、判決を下した東尾龍一裁判官にAは、「母の分まで生きたい」と、自らの再起を誓っていたのである。

再起を誓ったものの、その8年後に自殺。
しかしそれから8年後の2014年8月1日、Aは、判決後に移り住んだ滋賀県大津市の琵琶湖大橋から身を投げたのである。

数百円の所持金と共に、腰につけていたウエストポーチには、小さなメモ書きが入っていた。「自分と母のへその緒を一緒に焼いて欲しい」。そして小箱の中には、へその緒が2つ入っていた。