>>310
26章を読みました
前章に引き続き、今度はアグリッパ王にパウロが弁明する章ですね

パウロはアグリッパ王たちに敬意を払いつつも、これまでの経緯を率直に話しています
そのなかでキリストの受難と復活を、預言者たちの語ってきたことの成就として語っています
そしてそれを信じることで救われるというキリスト教信仰の要諦を述べています

これに対してフェストは気が狂っているという反応でしたが、アグリッパの方はもう少し冷静に
パウロの言を弁明というよりも宣教のように受け取っています
結果としてパウロに罪は認められない、という判断になりましたが
カイザルへの上訴がパウロの軛になるであろうと述べるアグリッパの言でこの章は終わっています

ここでの疑問点は26節のパウロのことばです
パウロの述べたキリストの受難と復活は片隅で行われたものではないので王が見逃すことはないはずだ
とパウロは言いますが、受難はまだしも復活は実際にユダヤ人たちが目撃したわけではないので
パウロたちの宣教を彼らは信じられないということになると思うので、ここは勢いに任せてパウロ(あるいはルカ)が
彼らの復活信仰を無理やり誇張して周知の事実であるかのように脚色しているように見えます
アグリッパは彼らがキリストの復活を信じていたことは知っていたかもしれませんが
キリストが復活したということを事実として知っているわけではありませんし、かつそれが事実であると
思っているわけでもありません
先生はこの箇所をどのように捉えていますか?