>>380
いえ、新約に限らずヘブライ語聖書についてもいろいろと参考にさせていただいています
セラは詩篇の詩句が謳われる際の伴奏・節・声などを指示する音楽記号と推測されているということですね
音楽記号だとすれば原語で発したものを読まない限り、さして意味がないことになるので
これからは気にせずに読むことにします

さて今日のヨハネの箇所ですが、イエス受難前の弟子たちへの洗足の場面ですね
イエスは手本であると言っています
つまり自分を低くして相手に尽くす行為のあり方を自ら弟子たちに示したものと思われます
この場面ではイスカリオテのユダも絡んできますが、18節にある
『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』という聖句は
ユダの裏切りを示していると取っていいのでしょうか?例によって預言の成就という形になっていますが
ユダの裏切りが最初から神の予定されていたことであるならば、それはユダ自身には責任を負うべき
自由意志がないことになり、ユダに罪はないことになるかと思います
自由意志と予定の整合は一般論としても神学的に困難な問題だと思いますが
ユダの裏切りは神の予定にとって必要な行為でありながら、その行為は悪とされユダに帰責されるため
ユダという一個人の尊厳に焦点を当てた場合、常に割り切れないわだかまりが残る箇所だと個人的には感じます