>>645-646
これもまたマカバイ時代等の可能性があるってことですね
わたしはこの章において悔い改めが希薄であること自体には別に何の批判もないのですが
今までのパターンとは異質だったので、少し奇妙な印象を持ちました
なにぶんにも背景が確定できないので悔い改めるべき咎があったのかどうかすら分かりません
ただ表面上の印象としては、悔い改めが希薄な分だけ、神を使役しているという印象を与えてしまう、
ということはあるかもしれません

さて80章も敵による受難の中で救いを求める訴えかけになってますね
ただその敵がよく分かりません
2節の「エフライム、ベニヤミン、マナセの前にあなたの力を振り起し」というのが
エフライムらに対して力を示し打ち据えよ、と言っているのか
エフライムらの側に立って、ユダヤ人に対する敵を打ち据えよ、と言っているのか判然としません
ベニヤミンが含まれていることから、単に南の王国が北の王国に敵対しているとは考えられないので
ユダヤ民族全体の敵を打ち据えるように訴えているのだろうという気がします
仮にそうだとするとエフライム、ベニヤミン、マナセは12氏族を代表して書かれているだけということでしょうか

あと気になったのはユダヤ人をぶどうの木にたとえていることです
ヨハネ福音書ではぶどうの木はイエスを指してイエスにつながる民はその枝として喩えられていましたが
ともかくもぶどうの木が神の民の比喩として使われているのが印象に残りました
もしかするとヨハネ福音書の喩えもこの詩篇を念頭に置いて発せられた喩えだったのかもしれない
と思いました