宗教板避難所
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>>655 彼は激務だよ汗 休みなさそうだし。 ありがとうね ルカ8:40 Ἐν δὲ τῷ ὑποστρέφειν τὸν Ἰησοῦν ἀπεδέξατο αὐτὸν ὁ ὄχλος. ἦσαν γὰρ πάντες προσδοκῶντες αὐτόν. Ἐν δὲ τῷ ὑποστρέφειν 前+接+冠・現不定 〜に+で+帰った時 τὸν Ἰησοῦν 冠・男単対格 イエースースを ἀπεδέξατο αὐτὸν ὁ ὄχλος.三単過+男単対格+冠・男単主格 彼は受け入れた+彼を+群衆は ἦσαν γὰρ πάντες 三複過+接+男複主格 彼らは〜いた+なぜなら+皆が προσδοκῶντες αὐτόν. 現分男複主格+男単対格 待ち望むこと+彼を スロージューサー訳 でイエースースが帰った時に、群衆は彼を歓迎した。 なぜなら彼らは彼を待ち望んでいたからである。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-40.htm >>652 サムエル記を読んだときにも、神は「悪い霊」をサウルに送ったりしてましたからね 新約の神と異なり、ヘブライ語聖書では神は清濁併せ呑むというか善悪併せ呑んで トータルな絶対者という描き方になっているように感じますね さて82章は短いですが、「神々」の読み方によって解釈が全く異なってくるように思います 神々をそのまま複数の神と捉えれば、ヤハウェは神々の長、ギリシャ神話のゼウスに近い立ち位置と いうことになってしまいます この場合はこの章は多神教時代のユダヤ教の名残、あるいはウガリト神話の影響のもとに書かれたもの、 といったあたりの解釈になるのでしょう 6,7節はこの解釈を肯定しているように見えます 神は神々のなかの頂点で、神々は神の「子」であり、それぞれ各地で裁きの権威を与えられていたが 不正な裁きをなし続けていれば、人のように死ぬことになるだろう、といった流れになると思います あるいは神々は異教の神々であって、ユダヤ人の立場からはその異教の神々より自分たちの神は 上であり、異教の神々はたかだか自分たちの神の子にすぎず、その権威に基づいて各地を統治している にすぎないのだ、みたいな感じですかね さしづめ王様と王子たちの関係といったところでしょうか 神々を神の使い、すなわち天使と捉えると、一神教の枠内に収まる解釈になりますが 2節以降の解釈が困難になってきます 唯一神教に一番整合できるのが、神々を人間の王や権威者と解釈することだと思います しかしこの解釈も特に6,7節の読み方が著しく困難になってしまうと思います 人間をなぜ「あなた方は神だ」と強調するのか、人間をなぜ「人のように死に」と言うのか 説明に窮するからです ということでこの章は解釈に困ってしまいますが、唯一神教の枠内に収まらなくても 神々をそのまま神々と解釈するのが一番しっくりくるように思いました JaneStyleはUnicode非対応なので、JaneStyleで閲覧している限り、シフトJISで処理できない文字は 文字化けすると思います(私もハゲ先生のギリシャ語は一部文字化けして表示されてます) 前はUnicode対応の専ブラもあったみたいですが、今はたぶんないですね ですからギリシャ語を文字化けせずに表示したい場合は、 通常のブラウザで表示させるしかないと思います ただiOSのJaneStyleではちゃんと文字化けせずに表示されてますw たぶんOS自体の文字処理が反映されているか何かで、処理できてるんでしょうが、よく分かりません >>660 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はルカ5:27-32 マタイ9:9-13 神々の原文はエロヒーム(エルの複数形)ですが、通常単数の「神」と訳される語ですが ここでは文脈上、明らかに「神々」として語られているので「神々」と訳されています。 ハーパー注解は 「神の裁判所に悪しき裁判官を呼び出し(1節)、彼らへの反証を整理し(2-4節)、 判決を宣し(5-7節)、神の世界支配の力を称賛して終わる(8節) 裁判官たちは「神々」と呼ばれる。神の位置に立つからである。 もし彼らがヤハウェのように行動しないのなら、彼らは偽りのカナンの神々の地位に 退けられ、非難され、排除される(イザヤ4:12-15)」 フランシスコ会訳註は、 「本詩は58篇と同じく不正な裁判官を責めたもの。彼らはここでは「神々」と呼ばれている。 ここに描かれている神々の会議の情景はカナンの神々を主の僕に格下げした非神話化の反映である。 この非神話化において神々は地上の裁きを任されるが、不正な裁きの故に不死の権利を喪失する(7節参照)」 「ある学者は、主がイスラエルの会衆に神々について語ったものとみる。 あるラビの伝承では、神がシナイで律法を授けた後のイスラエルに語られた伝承とみている。 それによると、律法を授かった後、イスラエルは神々のように不死身となった。もちろん 後で義を守らなかったために不死の権利を喪失した(7節参照)」 私が注目するのは「裁く者たち」が「神々」と呼ばれるのだが、不正な裁きをすると 特権を喪失するというイメージです。 日本の最高裁はほぼ全員が「不正な裁き」ばかりしていると思います。 Unicodeに対応しているとアクセント記号を表記できるのですか。なるほど。 日本人の個人サイトに新約の非アクセントテキストがあったのですか 発見てきません。なくなったのかもです >>662 ここでの「神々」は、カナンの神々の地位を剥奪するユダヤ教側のカナン神話の非神話化に 重ね合わせる形で、不正な裁判官を神々に見立て、その地位を剥奪するために用いられた 象徴表現という解釈ですね わたしにはかなり強引な解釈に思えますが、同時にこの章をユダヤ教(一神教)に即して合理的に 説明できる解釈でもあると思いました こういう箇所の解釈は、ヘブライ語聖書やそこでのことばの用法のみならず カナン・ウガリト神話を参照して総合的に推測しなければならないので、素人には難しいですね ルカ5:27-32 マタイ9:9-13はまた夜にでも感想を述べます Chromeなどの通常ブラウザでアクセント記号等が文字化けなく生じされるのは こういったブラウザがUnicodeに対応してるからですね 5ch専用ブラウザは日本人による日本語の議論を想定しているので おそらくUnicodeに対応する需要があまりないってことなんでしょうね 先生的には不満という面倒でしょうが、ギリシャ語をローマナイズして表記するという方法もありますね ルカ8:41 καὶ ἰδοὺ ἦλθεν ἀνὴρ ᾧ ὄνομα Ἰάϊρος καὶ οὗτος ἄρχων τῆς συναγωγῆς ὑπῆρχεν, καὶ πεσὼν παρὰ τοὺς πόδας [τοῦ] Ἰησοῦ παρεκάλει αὐτὸν εἰσελθεῖν εἰς τὸν οἶκον αὐτοῦ, καὶ ἰδοὺ 接+間 そして+見よ ἦλθεν ἀνὴρ 三単二過+男単主格 彼はやって来た+男が ᾧ ὄνομα Ἰάϊρος 男単与格+中単主格+男単主格 その+名前は+イアイロス καὶ οὗτος 接+男単主格 そして+この者は ἄρχων τῆς συναγωγῆς 男単主格+冠・女単属格 指導する者+会堂の ὑπῆρχεν, 三単未完 彼は存在していた καὶ πεσὼν 接+二過分単単主格 そして+ひれ伏して παρὰ τοὺς πόδας [τοῦ] Ἰησοῦ前+冠・男複対格+男単属格 〜の傍らへ+両足+イエースースの παρεκάλει αὐτὸν 三単未完+男単対格 彼は助け求めていた+彼を εἰσελθεῖν 二過不定 入って行くこと εἰς τὸν οἶκον αὐτοῦ,前+冠・男単対格+男単属格 〜の中へ+家+彼の スロージューサー訳 そして見よ、男がやって来た。その名はイアイロス。 そしてこの者は会堂の指導する者であった。 そしてイエースースの両足の傍らへひれ伏して 彼に助けを求めていた。彼の家の中へ入って行くようにと。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-41.htm すいません、寝てしまいましたw 今回はマタイ(レビ)を弟子にして取税人たちと食事をする箇所ですね ルカとマタイの違いは、 1. 呼び名がレビとマタイ 2. 食事(宴会)の開催場所が、ルカではレビの家、マタイでは単に家(あるいはイエスの泊まっていた家) 3. マタイではイエスのことばに「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』」を挿入 だいたいこのあたりでしょうか マタイでルカにはない「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』」が挿入されているのは なにか理由があるのでしょうか? 文脈上、罪人を非難するのが目的ではなく憐れみをかけ悔い改めさせることが目的なのだということを 強調するために挿入されたもののように感じます 昔パプアニューギニア高地人がほとんどイモしか食ってないのに なんであんなに筋肉隆々なのかの理由として、腸内細菌が腸内でタンパク質を生成してるからだ みたいな話を聞いたことがある で、調べてみたらこんなのが出てきた https://www.syokubunka.or.jp/column/vesta-columns/post014.html 腸内細菌叢がタンパク質の生成に寄与しているだろうというところは同じでも どうやらその実態や仕組みはまだよく分かってないらしい 以前から言われていた腸内細菌が空気中の窒素を固定してる、っていう説はにわかには信じがたいが 肉や豆類から取ってないなら、そんなこともあるのかもしれないね あるいはたまの機会に食すブタ等のタンパク質が超効率的に吸収されるような腸内細菌叢を この人たちがもっているということなのかもしれない どっちにしてもそれぞれの食文化に対応した腸内細菌叢が形成され、 その腸内細菌叢が欠けている栄養分を補うなど、わたしたちの健康に深く関わっている ことは事実のようで、人間が深く生態系に組み込まれた存在であることを改めて感じ取れる話だね >>667 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第83篇です。 元々レビだったものをマタイ福音書は、マタイということにして 十二使徒のマタイを取税人マタイということにしてしまった箇所ですね 後代はこの記述を根拠にして、マタイ福音書をマタイが書いたということに してしまいました。こうして物語は膨らんでいきます。 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』は、 マタイ12:7にもあって、マタイ好みの挿入句ですね 大元はホセア6:6です。 元々のマルコではレビの家であったものを、マタイは、取税人の家でイエースースが 食事したということにしたくなかったので改竄していますね ルカ8:42 ὅτι θυγάτηρ μονογενὴς ἦν αὐτῷ ὡς ἐτῶν δώδεκα καὶ αὐτὴ ἀπέθνῃσκεν. Ἐν δὲ τῷ ὑπάγειν αὐτὸν οἱ ὄχλοι συνέπνιγον αὐτόν. ὅτι θυγάτηρ 接+女単主格 なぜなら+娘が μονογενὴς ἦν αὐτῷ 形+現分女単主格+男単与格 一人子の+いた+彼に ὡς ἐτῶν δώδεκα 副+中複属格+数詞無変 およそ+歳+12 καὶ αὐτὴ ἀπέθνῃσκεν. 接+女単主格+三単未完 そして+彼女は+彼は死にかけていた Ἐν δὲ τῷ ὑπάγειν αὐτὸν 前+接+冠・現不定+男単対格 〜に+で+去る時+彼を οἱ ὄχλοι συνέπνιγον αὐτόν.冠・男複主格+三複未完+男単対格 群衆らが+彼らは窒息させた+彼を スロージューサー訳 なぜなら彼には、約12歳の一人子の娘がいた。そして彼女は死にかけていたのである。 で彼が去る時に、群衆が彼を窒息させていた。※ 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-42.htm ※窒息させるかのように押し合いへし合いしていたという比喩表現 >>670 わたしはマタイはレビの別称だと思っていましたが、別人物なんですね たしかに別称だとしたらペテロのように意味のあるあだ名になるでしょうから 別人物と考えたほうが良いのかもしれません 挿入句はホセアなんですね これ自体は意義深い聖句だと思いますが、ここで「いけにえ」はちょっとコンテキストから外れると 思っていました 取税人の家で食事をするほうが、当時のユダヤ人にとってはより「悪質」だったでしょうから マタイはそれを避けたという感じでしょうか さて詩篇に戻って、83章です この83章はヤハウェの民族神としての捉え方が特に顕著に出ていると思います ここでの質問は9節の「あなたがミデアンにされたように、キション川でシセラとヤビンにされたように」と 11節の「彼らの貴人をオレブとゼエブのように、そのすべての君たちをゼバとザルムンナのように」 という箇所です これはヘブライ語聖書に言及があるんでしょうが、記憶にありません 具体的にどの箇所を指し示しているのでしょうか? それからこれはある意味当たり前といえば当たり前ですが 1節の「神の沈黙」という箇所が改めて気になりました ヘブライ語聖書では神と民とのインターアクションはしばしば出てきますし 神は具体的な形で歴史に介入します しかしもちろん実際には海を割ったり火柱を立てて民を先導したりすることはなかったはずですから 当然民族の危機に対して神は沈黙を守っていたはずです 通常ヘブライ語聖書ではそれを神が沈黙しているのではなく、危機そのものを民の離反に対する神の回答 として解釈していたと思います(バビロン捕囚は神に従わなかった民への懲罰といったふうに) ヨブ記のような例外を除いては、直接的に神の沈黙を口にするのは比較的珍しいのではないかと思いました >>673 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第84篇です フランシスコ会訳註によると、 本詩は敵に囲まれたイスラエルを描いた国家的嘆願だそうです。 時期は前九世紀(代下20章)から前二世紀(1マカ5章)まで可能性があるそうです 6-8節に挙げられている名前は古い時代のものも新しい時代のものもあるそうです それ故フ註は、実際の戦争状態と言うより、むしろ祭りの典礼の時に歌われたとみています 対してハーパー注解はアサフ詩編の最後の詩にしてエロヒスト詩編の最後詩でもある 本詩の年代を詩編の中でも最初期の詩であると推定している。 根拠として前9世紀のアッシリア(9節)を除き、土師時代(前1250-1050年 士4-5,7-8章)に イスラエルの敵対した諸国を映し出しているからだとする。その上で後代の著者が太古からの 時代をまたいできた怒りの力を象徴するためにこれらの名をひいてきたとする。 ご質問の9節 11節は土師記4-8章だそうです。 4:2-3,13,22-23でカナンの王ヤビンと軍勢の長シセラの軍がキション川に呼び集められ 神によって滅ぼされたことが描かれています。5:21でキション川 7:27,ミデアンびとのふたりの君ミオレブとゼエブを捕え殺したこと 8:5-7ミデアンの王ゼバとザルムンナが出てきます 神の沈黙は詩編では他にもあります 28:1主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。 わが岩よ、わたしにむかって 耳しいとならないでください。 もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、 わたしは墓に下る者と等しくなる ルカ8:43 Καὶ γυνὴ οὖσα ἐν ῥύσει αἵματος ἀπὸ ἐτῶν δώδεκα, ἥτις [ἰατροῖς προσαναλώσασα ὅλον τὸν βίον] οὐκ ἴσχυσεν ἀπ’ οὐδενὸς θεραπευθῆναι, Καὶ γυνὴ οὖσα 接+女単主格+現分女単主格 そして+女性は+彼女は〜であった ἐν ῥύσει αἵματος 前+女単与格+中単属格 〜うちに+流出+血の ἀπὸ ἐτῶν δώδεκα, 前+中複属格+数詞 〜から+歳+12 ἥτις [ἰατροῖς προσαναλώσασα 女単主格+男複与格+過分女単主格 この女は+医者らに+使い果たして ὅλον τὸν βίον] 男単対格+冠・男単対格 すべてを+財産を οὐκ ἴσχυσεν 否定+単過 できなかった ἀπ’ οὐδενὸς 前+代名詞男単属格 〜から+誰も θεραπευθῆναι,過不定受 癒されること スロージューサー訳 そして女性は12歳から血の流出のうちにあった。 この女は医者らに全財産を使い果たしたが、誰からも癒されることがなかった 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-43.htm ルカ8:44 προσελθοῦσα ὄπισθεν ἥψατο τοῦ κρασπέδου τοῦ ἱματίου αὐτοῦ καὶ παραχρῆμα ἔστη ἡ ῥύσις τοῦ αἵματος αὐτῆς. προσελθοῦσα ὄπισθεν 二過分女単主格+副 〜の方へ向かって来て+後ろから ἥψατο τοῦ κρασπέδου 三単過中動+冠・中単属格 彼は属格に触った+ふさの τοῦ ἱματίου αὐτοῦ 冠・中単属格+三単属格 衣服の+彼の καὶ παραχρῆμα ἔστη 接+副+三単二過 そして+すぐに+それは立った ἡ ῥύσις τοῦ αἵματος αὐτῆς.冠・女単主格+冠・中単属格+女単属格 流出が+血の+彼女の スロージューサー訳 後ろから近付いて彼の衣服の房に彼女は触った。 するとたちまた彼女の血の流出が立ち止まった。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-44.htm >>674 やはり年代特定は難しいんですね 今回もそうですが、紹介していただいたフランシスコ会訳註とハーパー注解では ずいぶん推定が異なりますね それほど詩篇の背景的解釈は難しいということなんでしょうね 9節、11節で出てくる名前は士師記だったんですね ありがとうございます ついでにちょっと見てみたらたしかに名前がありました 女預言者デボラは覚えてますが、この人達の名前は まるでまったく覚えてませんw 士師記を読んだときにはそこそこ面白いと思っていたのに やっぱり1,2回読んだくらいじゃ全然ダメってことですねw 神の沈黙については詩篇のその他の箇所にもあったんですね さて84章ですが、主の大庭、シオンの大路、神の家の門守とあるところから 作られたのは、すでに神殿が建造された後の時代であるように思います 内容的には神への賛美が中心だと思いますが、ひとつ気になったのは7節です ここでヤハウェは「神々の神」と表現されていますが これはどう考えたら良いでしょうか? 普通に読めばモロ多神教時代の表現に取れますから 唯一神教化が顕著になるバビロン捕囚期以降、つまり第二神殿期とは考えにくいです ソロモン時代からユダ王国の安定期あたりだとしても、こんなに直接的に多神教的な表現が 保存されているのは珍しいような気がします ひとつ考えたのは、「神々の」神という表現が単なる偉大さを形容するために慣用化した表現なのかも しれない、ということです あと6節のバカの谷には笑ってしまいました 最初はそのまま馬鹿の谷?と思ってましたw >>677 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第85篇です。 ハーパー注解はフランシスコ会訳註を参照していますが、それでも見解が 割れるようですね。とはいえ、この個所については詳しくはフ註を参照しなさい という表記が時折見られます。またハーパーの詩編担当は、北米の詩編の権威の J.L.メイズです。『現代聖書注解 詩編』の担当者です。 ハーパー注解はこの詩をコラ・ギルドの第二詩集としています。 そして聖所への巡礼の際に歌われたとし、ヘブライ語本文はしばしば難解で 様々に訳されるそうです。 フランシスコ会訳註は捕囚の地にいて巡礼できない者の心情を詠んでいるという 立場と巡礼途上あるいは到着時に歌った歌という説があり、後者だろうとしています。 「神々の神」の個所8b(口語訳7b)について諸訳あるそうです。 「シオンにおいて神とまみえます」(フランシスコ会訳 新改訳 新共同訳 聖書協会共同訳) 「神はシオンで彼らに現れる」 「神々の神はシオンでみられる」(口語訳) バカの谷についてハーパー注解はヘブライ語baka'は稀で難解なヘブライ語であると した上で、わづかな改訂で「涙」と読める。実際古代教会では、マリアに捧げた 讃美歌「サルヴェ・レジーナ」は「この地上の涙の谷」と呼んでいるとしています。 そしてここのを「涙」と読むと後半の「雨」とつながると主張しますが、絶対に 確実な訳では無いと言い訳もしています。 フランシスコ会訳註は、ヘブライ語バカは「乾いた」という意味であるとし、 「乾いた谷」と本文で訳しています。バカの本来の意味は乾燥地に生える低い バルサムの木である。バカを固有名詞として扱い「バルサムの谷」と訳されることも ある。今日のワディ・エル・メス(エルサレム南西端の外側)と推定までしています。 その上で若干の写本と古代訳は「乾いた谷」(バカの谷)を「涙の谷」(ボキムの谷)としている と付け加えてます >>678 ハーパーのし編担当が詩篇の権威で、かつその紙片の権威がフランシスコ会訳註を しばしば参照している、ということは、ある意味詩篇解釈の最も優れた注釈を持ってしても なかなか解決には至らない、ってことですね 一応聖所への巡礼時に歌われた賛美歌であろうということですね 「神々の神」についてはそもそも原語レベルで確定していないということですか それに「バカの谷」ももしかしたら「涙の谷」あるいは「乾いた谷」と書かれていた可能性が あるってことですね 口語訳はよく分からんからそのままバカの谷と原語のまま書いたか あるいは固有名詞と解釈したか、ってところなんでしょうね 85章はまた夜に読んで感想を述べます 連休だと時間的にも体力的にも余裕があるので、なんか楽しいですw >>679 ハーパー注解は一応、北米メインラインのスタンダードです。 メイズはハーパー注解の総編者にして詩編担当。 その人も常にフランシスコ会訳註を参照しているほど フランシスコ会訳註の評判はよいのですが、意見はかなり割れているわけです。 これに福音派の注解やら、泡沫注解などがあるので、何が正しいか不明です。 そもそも確定できるのかどうかもわかりません。 私は詩編については原文を確認しているわけではなくて、ハーパーとフランシスコ会訳註と 福音派の注解を参照しているレベルですので。 ヘブライ語聖書では唯一、創世記に関しては対訳を持っていますので 何ほどかは原文を確認できますが詩編までは手が回りません。申し訳ない。 ルカ8:45 καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς. τίς ὁ ἁψάμενός μου; ἀρνουμένων δὲ πάντων εἶπεν ὁ Πέτρος. ἐπιστάτα, οἱ ὄχλοι συνέχουσίν σε καὶ ἀποθλίβουσιν. καὶ εἶπεν ὁ Ἰησοῦς. 接+三単二過+冠・男単主格 そして+彼は言った+イエースースが τίς ὁ ἁψάμενός μου; 疑+冠・中動過分男単主格+一単属格 誰か+触った者は+私の ἀρνουμένων δὲ πάντων 現分男複属格+接+男複属格 否定すること+で+皆の εἶπεν ὁ Πέτρος. ἐπιστάτα, 三単二過+冠・男単主格+男単呼格 彼は言った+ペトロスが+上に立つ者よ οἱ ὄχλοι συνέχουσίν σε 冠・男複主格+三複現+二単対格 群衆が+彼らは押し迫る+あなたを καὶ ἀποθλίβουσιν.接+三複現 そして+彼らは押し合っている スロージューサー訳 そしてイエースースが言った。「私に触った者は誰か」 で皆が否定した。ペトロスが言った「親分、群衆らが押し迫り、そして押し合っています」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-45.htm >>680 いえいえ、詩篇に限りませんが、聖書を読んでいると様々な疑問が湧いてくるので その都度質問に答えていただけるのはありがたい限りです さて85章です この章では過去において神が民の不義を赦し怒りを鎮められたことを引き合いに出して 現在の神の怒りを鎮める(民の苦難を取り除く)よう嘆願する詩であると思いました この章で気になったところは10節です 救いとして、いつくしみとまこと、平和と義がともに成就する様を思い描いている箇所ですが これは新約的なフィルターで観ると、愛と義という神の二大属性が地上において一致する様を 描いているように思えます ともかく、たいへん美しい表現だと思います しかし11節以降ではいつくしみということばは消え、まことと義に焦点が当てられているように見えます いつくしみに対応する箇所はおそらく12節の「主が良いものを与えられるので、我らの国は その産物を出し」という部分だと思いますが、そうするとヘブライ語聖所でしばしば出てくる 「いつくしみ」はより物質的・肉体的な恩恵に近いものであるように感じられます 新約に比べると、より現実的で現世的な趣きがあります こう感じるのは新約がより精神的なもの、「永遠の命」といった、より彼岸的なものを感じさせる表現に 溢れていること、そういった新約に対する我々の解釈も、より彼岸的なものに傾斜してしまっていることと 関係しているように思われます 逆にヘブライ語聖書の伝統に照らして新約を再読してみれば 新約も、より此岸的な側面が見えてくるのではないかと思いました イエスの「神の国はあなたがたの間(中)にある」というセリフも 心の内といった精神的なものではなく、人と人の間、この世で人と人が関わっているただなかに あるのだ、といったように、より現世的、現実的な色合いを帯びてくるように感じました >>682 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第86篇です 85:9まことに、その救は神を恐れる者に近く、その栄光はわれらの国にとどまるでしょう。 85:10いつくしみと、まこととは共に会い、義と平和とは互に口づけし、 85:11まことは地からはえ、義は天から見おろすでしょう。 9節 יֵשַׁעイェーシャ救と כָּבוֹדカーボード栄光 10節aחֶסֶדヘセドいつくしみと אֱמֶתエメットまこと 10節b צֶדֶקツェデク義 とשָׁלוֹםシャローム平和 11節 אֱמֶתエメットまこと とצֶדֶקツェデク義 という展開になっている美しい詩の部分は詩人の預言でもありますね 新約的には、これらの徳目が主イエースースの十字架の贖いによって 我らの中で一致し結び合うという理解になるかもですね ルカ8:46 ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν. ἥψατό μού τις, ἐγὼ γὰρ ἔγνων δύναμιν ἐξεληλυθυῖαν ἀπ’ ἐμοῦ. ὁ δὲ Ἰησοῦς εἶπεν. 冠・接+男単主格+三単二過 で+イエースースが+彼は言った ἥψατό μού τις, 三単過中動+一単属格+疑 彼は触った+私の+誰かは ἐγὼ γὰρ ἔγνων 一単主格+接+一単二過 私は+なぜなら+私は知った δύναμιν ἐξεληλυθυῖαν 女単対格+完分女単対格 力を+出て行くことを ἀπ’ ἐμοῦ. 前+一単属格 〜から+私 スロージューサー訳 でイエースースが言った。「私に触ったのは誰か」 「なぜなら私から出て行く力を私は知覚した」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-46.htm >>683 挙げてもらった原語の中で知っていたのはシャロームだけですw ただそう言えばツェデクというのも聞いたことがあるようなないような… 「いつくしみ」「まこと」と言った和語は、日本人の心にダイレクトに響くような和語なので 本当に自分が直感しているニュアンスと一致するのかどうか気をつけないといけないと 思いますが、元の古代ヘブライ語自体、聖書外での用例がほとんどないため 聖書で語られる具体的なストーリーや律法を通してそのニュアンスを推測していくしかなさそうですね さて86章ですが、ここも痛切に神の憐れみを訴えかける章になってますね ここで気になったのは前章同様、多神教的背景があるのかどうか、ということです 8節で「もろもろの神のうちあなたに等しい者はなく」という箇所が出てきます ここだけなら完全に複数の神々のうちヤハウェを特別視する表現に思えますが 続く9節では「あなたが作られたすべての国民」という表現で創造主としてのヤハウェが語られ さらに10節では「ただあなたのみ、神でいらせられます」という文句で ヤハウェが唯一の神であることが宣言されています とすると、8節の「もろもろの神」というのは、偽りの神、異教徒たちが神と誤認している存在 ということになるのでしょうか?あるいはユダヤの民にとってはヤハウェのみが神であるという 拝一神教的な表現なのでしょうか? >>685 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第87篇です。 8節の原文は、「エロヒームは誰もこのようなものではない」です。 時に神と訳される複数語ですが、ここでは諸訳が「神々」と訳しています。 というのは「このような」とは、前節以前の特質である 「恵みふかく、寛容で、いつくしみを豊かに施す神」だからです。 他の神々はこのような特質を持たない虚無的なものと否定されます。 つまり拝一神教がダビデのポエムとして歌われているわけです。 さて唯一神教の立場を採るキリスト教では困った箇所なのでしょう。 福音派もフランシスコ会訳もエロヒームを神々と訳するだけで、この問題に 触れません。 ハーパー注解は、8節に詳しく触れてエロヒームを「神モドキ」と解釈することで 唯一性を担保しています。ご苦労な事です 二か月で浪人に8000円も使ってなお規制されたよ。トホホ・・・。 まぁ、こういう所に寄るのも必要ですね。 さて、今回はファチマの預言について語りたいと思います。 1.アラフェス殺すな:黄金時代のアンタレスの炎を消そうとするものは地獄へ落ちる 2.ヨハネの黙示録は絶対起きる:ビートルズ5人組のHey,Jude 偽キリストJude 3.大アンティパス法王ペテロが死ぬ:銅鏡の親分の初代法王ペテロ・ゼウスが死ぬ。 そういえば、キリスト教に教祖はいらないって聞いたことあるぞ。 教祖つったらペテロだし、勘違い多いし。児童虐待ばかりしてるし。 俺もその被害者。いい加減にしてくれよ。 ルカ8:47 ἰδοῦσα δὲ ἡ γυνὴ ὅτι οὐκ ἔλαθεν, τρέμουσα ἦλθεν καὶ προσπεσοῦσα αὐτῷ δι’ ἣν αἰτίαν ἥψατο αὐτοῦ ἀπήγγειλεν ἐνώπιον παντὸς τοῦ λαοῦ καὶ ὡς ἰάθη παραχρῆμα. ἰδοῦσα δὲ ἡ γυνὴ 二過分女単主格+接+冠・女単主格 見て+で+この女性は ὅτι οὐκ ἔλαθεν, 接+否定+三単二過 〜と+隠れておれない τρέμουσα ἦλθεν 現分女単主格+三単二過 おののきながら+彼はやって来た καὶ προσπεσοῦσα αὐτῷ 接+二過分女単主格+男単与格 そして+跪いて+彼に δι’ ἣν αἰτίαν 前+女単対格+ 〜の理由で+この+理由 ἥψατο αὐτοῦ ἀπήγγειλεν 三単過中動+三単属格+三単過 彼は触った+彼の+彼は宣べ伝えた ἐνώπιον παντὸς τοῦ λαοῦ 前+男単属格+冠・男単属格 前に+すべての+民の καὶ ὡς ἰάθη παραχρῆμα.接+副+三単過受+副 そして+〜のように+彼は癒された+たちまち スロージューサー訳 で、この女性は隠れて折れないと見て、おののきながらやって来て、そして彼女は彼に 跪き、何の理由で彼に触ったのか、そしてたちまち癒されたことをすべての民の前に宣べ伝えた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-47.htm >>686 やはり拝一神教的な解釈が妥当だということですね さて87章シオン(エルサレム)についての短い詩ですが 4節以降がよく分かりません まずラハブはわたしの記憶する限り、ユダヤ人がカナンの地(アイ?エリコ?)に攻め入る際に 斥候を匿った遊女の名前ですが、バビロン、ペリシテ、ツロ、エチオピアと並列されているため おそらく地名だと思います で、異国の地名、つまり異邦人を「わたしを知る者のうちに挙げる」と言っているのは 将来的に異邦人もユダヤの神を信じることになる、というとでしょうか? また「「この者はかしこに生まれたというのもその関連で「シオンに生まれた」という意味、 つまりはユダヤの神に帰属するようになる、という意味でしょうか? >>692 atheistくん、おはようございます。 本日と明日の聖句はルカ9:51-56,マルコ10:35-45,1ヨハネ4:7-12です。 ハーパー注解は本詩を最も難解な詩と言っています。 1-3節は神によるシオンの選び。4-6節はすべての母であるシオン。7節が終結部 フランシスコ会訳註は4-5bは主の宣託と考えられているとしています。 そしてラハブは、かの有名な娼婦ラハブではなくて、ユダヤの伝説上の海の怪物です。 89:11にも登場していますが、これ比喩で、実際はエジプトの象徴だそうです。 エジプト、バビロニア、ペリシテなどのイスラエルの宿敵を列挙して 世界的な神の王国を表現し、彼らも神の民へと選ばれていると歌われているわけです。 つまり敵である諸国も「ユダヤの神に帰属するようになる」 シオンを母とするようになるということですね。 >>693 ラハブはエジプトなんですか たしかにバビロンやペリシテ、エチオピアがあってエジプトがないのは変ですからね 異国の民、異教徒もユダヤの神を信仰するようになるって流れで良いんですね 休日の箇所ですが、ルカがサマリアの村拒絶された際にヤコブとヨハネが 焼き払っちゃいましょう、と進言したことをイエスが叱った箇所、 マルコがやはりヤコブとヨハネが特別な地位を求めたことに対して 使える人となれ、と窘めた箇所、ということで弟子の不見識をイエスが諫めるという点で 共通しているように思いますが、最後のヨハネの箇所はサマリアの女に水を求める箇所で しかも話が途中までです ヨハネの箇所が一緒に選択されている意図がわからないので、ここは置いておくとして 福音書では上記のように弟子たちの不見識や傲慢などがけっこう露骨に語られます もちろん、福音記者が特定の弟子を非難する意図もあったかもしれませんが 現代において福音書を読むわたしたちにとっては、こういった弟子の未熟さというものが はっきり書かれていることによって、福音書の物語がよりリアリティのあるものになっているように 思います そのため読む者は弟子たちに憤慨したり共感したりすることで 福音書をよりいっそう自分のこととして読めるようになるのだと思います >>694 atheistくん、おはようございます。すみません、書き方が悪かったようですね 1ヨハネ4:7-12は、Tヨハネ4:7-12 ヨハネ第一の手紙のことでした。 4:7愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。 愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、 神を知っている。 4:8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 4:9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして 下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 4:10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、 わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。 ここに愛がある。 4:11愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、 わたしたちも互に愛し合うべきである。 4:12神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、 神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。 >>694 atheistくん、おはようございます。明日の聖句は詩編88篇です。 ルカは大きく三部構成になっていて 0.序論 1,2章 1.第一部 3:1-9:50 ガリラヤ地方中心 マルコを改変 2.第二部 9:51-18:14 ガリラヤからエルサレムへの移動期間 独自資料 3.第三部 18:15-24:53 エルサレム滞在と受難と復活物語 マルコを改変 ルカ9:51-56は平行記事がありませんが、弟子たちがサマリアを焼き払えと進言 する程度にサマリアに対する差別意識が弟子たちにあったということに驚かされます。 ルカ8:48 ὁ δὲ εἶπεν αὐτῇ. θυγάτηρ, ἡ πίστις σου σέσωκέν σε. πορεύου εἰς εἰρήνην. ὁ δὲ εἶπεν αὐτῇ. 男単主格+接+三単二過+女単与格 彼は+で+彼は言った+彼女に θυγάτηρ, 女単主格 娘 ἡ πίστις σου 冠・女単主格+二単属格 信仰が+あなたの σέσωκέν σε. 三単完+二単対格 それが救った+あなたを πορεύου εἰς εἰρήνην. 二単現命+前+女単対格 あなたは行きなさい+〜の中へ+平和 シャロームの訳 スロージューサー訳 で彼は彼女に言った。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。 安心してお行きなさい」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-48.htm Region: [JP] QUERY:[27.131.226.197] (ワッチョイ) f2e8-vjB4 HOST NAME: c197.kct-g226.spacelan.ne.jp. IP: 27.131.226.197 -- Results NONE -- End of job. User-Agent: Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; Win64; x64) AppleWebKit/537.36 (KHTML, like Gecko) Chrome/101.0.4951.54 Safari/537.36 Edg/101.0.1210.39 >>695 いえいえ、私のほうがすっかり見落としていました、すみません ルカ、マルコと来たので、完全に先入観でヨハネ福音書だと思いこんでました 不思議なもので、何度か確認したんですけど、1の部分が全然目に入っていませんでした 1ヨハネのこの箇所はまさにキリスト教の愛を要約したような箇所ですね >>696 ルカの当該箇所はルカ独自ということですね いやもうヤクザや暴力団でも歓迎されないからって、焼き払っちゃいましょうか、なんて言いませんw これが事実であったかどうかは分かりませんが、弟子たちは案外みんな血の気の多い人達 だったのかもしれませんね イエスの非暴力のメッセージはこういう弟子たちや民衆に対してなされたものと考えると よりいっそうそのメッセージの力強さが際立ってきますね >>699 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第88篇です 独自資料なので、なんらかの先行する資料があったようですね。 事実かどうかは不明ですが、本当だとすると 当時の世間の人たちからは、チンピラ集団と映っていたのかもです。 ルカ8:49 Ἔτι αὐτοῦ λαλοῦντος ἔρχεταί τις παρὰ τοῦ ἀρχισυναγώγου λέγων ὅτι τέθνηκεν ἡ θυγάτηρ σου. μηκέτι σκύλλε τὸν διδάσκαλον. Ἔτι αὐτοῦ λαλοῦντος 副+男単属格+現分男単属格 まだ+彼の+語っている時 ἔρχεταί τις 三単現+男単主格 彼はやって来た+誰かが παρὰ τοῦ ἀρχισυναγώγου 前+冠・男単属格 〜から+会堂司 λέγων ὅτι 現分男単主格+接 云うには+〜と τέθνηκεν ἡ θυγάτηρ σου. 三単完+冠・女単主格+一単属格 彼は死んだ+娘は+あなたの μηκέτι σκύλλε 副+二単現命 もはや〜ない+あなたは煩わせるな τὸν διδάσκαλον.冠・男単対格 先生を スロージューサー訳 まだ彼の語っている時、会堂司からある者がやって来た。云うには、 「あなたの娘は死んだ。もはや先生を煩わせるな」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-49.htm ルカ8:50 ὁ δὲ Ἰησοῦς ἀκούσας ἀπεκρίθη αὐτῷ. μὴ φοβοῦ, μόνον πίστευσον, καὶ σωθήσεται. ὁ δὲ Ἰησοῦς ἀκούσας 冠・接・男単主格+過分女単主格 で+イエースースが+聞いて ἀπεκρίθη αὐτῷ. 三単過+男単与格 彼は答えた+彼に μὴ φοβοῦ, 否定+二単現命 あなたは恐れるな μόνον πίστευσον, 副+二単過命 ただ+あなたは信じなさい καὶ σωθήσεται.接+三単未受 そして+彼は救われるであろう スロージューサー訳 でイエースースが聴いて彼に答えた。 「恐れるな。ただ信じなさい。そして彼女は救われるであろう」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-50.htm >>700 十数人が徒党を組んで各地を歩き、時には神殿でちゃぶ台返しをしたり 落ち穂を拾って食べたり、取税人と一緒に食事をしたりしてますからね 傍目からはたしかにチンピラ集団に見えたかもしれないですw さて再び詩篇に戻って、今日は88章です この章は今までも何度かあった、神に対する悲痛な訴えかけではありますが 今までよりもはるかにその悲痛の度合は増しているようです まるでヨブ記を読んでいるようです また極めて個人的な訴えかけであることも、ヨブ記を思い起こさせます 今日の質問は10節から12節です ここは修辞疑問のように読めます つまり神は死んだ者のために奇跡は行わないし、亡き魂は起き上がることもないし 慈しみやまことは死者には宣べ伝えられないし、義は忘れの国(死の国?)には届かない と読めます しかし13節で筆者は「しかしわたしはあなたに呼ばわります」と言ってますから 10節から12節は筆者の絶望的な境遇を比喩的に表現したもののようにも読めます 現世主義的なユダヤ教では一般に死後の復活や救いについて語られることが少ないので ここでは文字通り、死してしまえば神の救いは届かない、と言っているようにも読めますが 13節を鑑みると、10節から12節はあくまでも筆者の絶望的な境遇を 比喩的に表したもののようにも読めます ここはどのように解釈するのが適切だと思われますか? >>703 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第89篇です ハーパー注解によると、コラ・ギルドのヘマン家の作品で、ヘマン家は典礼の歌や その指導で良く知られたグループだそうです。ところが詩人は深刻な病のために 完全に孤立し、都と隣り合わせにある状況下で鬱状態にある者の祈りだそうです。 10-13節は矛盾に満ちているとハーパー注解は解説しています。 曰く「イスラエルの信仰告白と礼拝を不明瞭な死者の住居に導きつつ 再度シェオールから神に訴える。これらの詩行には矛盾が満ちている」 10節から12節は筆者の絶望的な境遇を比喩的に表現したものなのでしょう 恐らくはらい病などの病気で隔離され、孤立し死が間近で救われる可能性が少ない その中で彼はそれでも祈ると歌っているように思います >>704 深刻な病にある人の詩だったのですね どおりで真に迫っていると思いました キリスト教であれば死の淵にあっても死後に希望を託すことができたでしょうが ユダヤ教では死後の希望を抱くことができず、絶望しながらもギリギリのところで 神に祈っていたのかもしれませんね さて89章ですが、長いですw 37節まではずっと神を賛美し、神はダビデと結んだ契約を堅持すると謳っているので 賛美の歌かと思いましたが、なんと終盤の38節から一転して神が契約を廃棄したことを嘆き 神がこの惨状を心に留めるよう訴えかける詩になってます 「いつくしみ」や「まこと」ということばを使用しているところや いつまで怒りを収めずにいるのかと訴えかけるところなど、例えば85章によく似た詩であると思いました ここでの質問は、細かいことですが24節などで出てくる「角」についてです 言わんとすることは分かるのですが、ここで使用されている「角」とは具体的に何のことなのでしょうか? >>705 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は詩編第90篇です。 「角」はフランシスコ会訳註によると、 「力と勝利の象徴」だそうですが、具体的に何かについての説明はありません。 そこでぐぐると 「一部の哺乳類の頭部にある硬い突起物をさす。骨からできているものと、角質から できているものとある。 超自然的な力、神性、魂の力、頭から湧きあがる生命の力をあらわし、 兜や被り物につける角は人の力を倍化させるといわれる。 このほか、角のある神は軍神や嵐の神とされ、 威厳、王威、強さ、勝利、保護、男らしさ、多産、豊穣を象徴するが、 キリスト教では角のある神を悪魔としたため、恥辱、侮蔑、卑劣を象徴することになる」 フランシスコ会訳註によると本詩の1-5節と20-38節は前10Cソロモンの時代の作だそうです。 古代なので動物の角から超自然的な力がイメージされ 「威厳、王威、強さ、勝利、保護、男らしさ」などの象徴となっていたのかもですね חֶסֶדヘセド慈しみ אֱמוּנָהエムナーまこと という契約の言葉が本詩のキーワードですね >>706 具体的ななにかを指すということではなく、威厳や力強さの象徴ということですね キリスト教では角に対する価値観が反転しているというのも面白いです さて90章ですが、ここでも基本線は、筆者あるいは民が経験している苦難の原因を 神の怒りに帰して、その怒りを取り去り、いつくしみを与えるよう嘆願する詩であると思いました ただこの詩で印象に残ったのは永遠の神に比した人間の儚さです これは新約聖書とは対照的で、ヘブライ語聖書では人は塵に帰り、滅び去るものとされています であるから死後の救いではなく、14節のように「世の終わるまで」喜び楽しむことを希求するのでしょうね やはりここでもユダヤ教の現世主義的な側面が表れているように思いました 質問というわけではないのですが、ひとつ気になったのが10節です 古代で一般的な寿命が七十年というのはずいぶん長くないですか? おそらく庶民の平均的な寿命はもっと短かったであろうと思います もしそうだとすれば、筆者が一般的な寿命を七十年と考えていることから推察するに 詩の印象とは反対に、筆者はかなり裕福な階級・階層に属していたのではないかと思います あくまでも想像ですが、もしかすると庶民はヘブライ語聖書を編集した階層の人たちとは違って 過酷な現実のなかで素朴に死後の命や復活を信じていたのではないかと、ふと思いました そういった庶民の素朴な信仰(あるいは希望)がパリサイ派らの復活信仰へとつながっていったのでは ないかと感じました >>707 atheistくん、おはようございます。本日の聖句は使徒第一章です。 なぜか第三巻の終わり89篇で終わらず、第四巻冒頭の90篇をやって新約に移動します。 日本の鬼もそういえば角がありますが「強さ」の象徴ですものね さて、寿命が七十年について、鋭いですね。私は違和感なく読んでましたが ハーパー注解によると、古代当時の平均的な寿命は44歳だそうです。 なぜよわい70年なのかについて、 エレミヤ25:11国々は七十年の間バビロンの王に仕える を挙げていますが、関連が私にはよくわかりません。 本詩は唯一、モーセの詩とされる詩編の詩だそうですが、フランシスコ会訳註によると 申命記32章のモーセの歌の中に類似の考えが見られるそうです さて作者とされるモーセは出エジプト記によると 7:7彼らがパロと語った時、モーセは八十歳 80歳でエジプトから脱出し荒野を40年さまよい、120歳で死んだことになっています。 モーセの詩だとすると 90:10われらのよわいは七十年にすぎません。 あるいは健やかであっても八十年でしょう。 というのは実感だったのかもですね ルカ8:51 ἐλθὼν δὲ εἰς τὴν οἰκίαν οὐκ ἀφῆκεν εἰσελθεῖν τινα σὺν αὐτῷ εἰ μὴ Πέτρον καὶ Ἰωάννην καὶ Ἰάκωβον καὶ τὸν πατέρα τῆς παιδὸς καὶ τὴν μητέρα. ἐλθὼν δὲ 二過分男単主格+接 やって来て+で εἰς τὴν οἰκίαν 前+冠・女単対格 〜の中へ+家 οὐκ ἀφῆκεν εἰσελθεῖν否定+三単過+二過不定 彼は許さなかった+入ることを τινα σὺν αὐτῷ 男単対格+前・男単与格 誰かを+〜共に+彼と εἰ μὴ Πέτρον (接+否定)+男単対格 〜以外には+ペテロスを καὶ Ἰωάννην καὶ Ἰάκωβον (接+男単対格)+(〃) そして+イオーアンネースを+そして+イアコーボスを καὶ τὸν πατέρα τῆς παιδὸς 接+冠・男単対格+冠・女単属格 そして+父を+幼児の καὶ τὴν μητέρα.接+冠・女単対格 そして+母を スロージューサー訳 で家の中へやって来て、彼は、ペテロスとイオーアンネースとイアコーボスと 幼女の父と母以外の誰もが入る事を許さなかった。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-51.htm ルカ8:52 ἔκλαιον δὲ πάντες καὶ ἐκόπτοντο αὐτήν. ὁ δὲ εἶπεν. μὴ κλαίετε, οὐ γὰρ ἀπέθανεν ἀλλὰ καθεύδει. ἔκλαιον δὲ πάντες 三複未完+接+男複主格 彼らは泣き叫んでいた+で+すべての者らが καὶ ἐκόπτοντο αὐτήν. 接+三複未完中動+女単対格 そして+彼らは悲嘆していた+彼女を ὁ δὲ εἶπεν. 男単主格+接+三単二過 彼は+で+彼は言った μὴ κλαίετε, 否定+二複現命 あなた達は泣き叫ぶな οὐ γὰρ ἀπέθανεν 否定+接+三単二過 なぜなら+彼女は死んでいない ἀλλὰ καθεύδει. 接+三単現 そうではなくて+彼女は眠っている スロージューサー訳 で皆が彼女を泣き叫びそして悲嘆していた。で彼は言った。 「泣き叫ぶな。なぜなら彼女は死んでいない。そうではなくて彼女は眠っているのだ」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-52.htm >>707 atheistくん、こんばんは。 本日の聖句はローマ第一章です。 失礼しました>>708 の 「本日の聖句は使徒第一章です。」は誤りです ルカ8:53 καὶ κατεγέλων αὐτοῦ εἰδότες ὅτι ἀπέθανεν. καὶ κατεγέλων αὐτοῦ 接+三複未完+男単属格 そして+彼らは属格を嘲笑っていた+彼の εἰδότες 完分男複主格 知っていたので ὅτι ἀπέθανεν.接+三単二過 〜と+彼女が死んだ スロージューサー訳 そして彼女が死んだと知っていたので彼らは彼を嘲笑っていた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-53.htm >>708 創世記など900歳とかぶっ飛んでますからね モーセの120歳というのも古代ではちょっと考えられない歳ですが トーラの伝統に従って寿命はそこそこ長めに書いてるのかもしれませんね >>711 了解です いよいよローマ人への手紙が来ちゃいましたか パウロは捏ねくり回すような文体が続くので読むのがたいへんです なるべくその文体に引きずられることのないよう素朴な目で読んでいきたいと思います さて1章は手紙冒頭になりますが、まず自分が使徒であるという宣言から始まり イエス・キリストが預言者たちによって予言されていた福音であることを告げ知らせます 本題は16節あたりからでしょうか、信仰による義と不信仰による不義を対比させ 神の永遠の力と神性は被造物において明らかに認められるからというロジックで 不信仰に対して弁解の余地なしと言い切ってます 古代においてはこのロジックは一定の説得力を持っていたのかもしれません ともかく神を知りながら神を崇めず、その不朽の神を朽ちゆく被造物の像に替えてしまったがゆえに 神は不信心者を欲望によって汚れるままに任せられた、と論を展開し 話題を「不自然な」情欲へと指し向けていきます これは当時のローマでなかば公然と行われていた同性愛に対する批判なのでしょうが わたしはヘブライズムによる偏見だと思います もちろん実際に放埒な同性愛その他異常性愛と言えるようなことも行われていたのでしょうが ユダヤ教の伝統に深く身を浸していたパウロにとっては同性愛ということ自体が 許しがたいことだったのだと思います 今回の質問は14節の「ギリシヤ人にも未開の人にも」という箇所です ギリシャ人は自分たちをヘレネスと呼びギリシャ語をしゃべらない異邦人をバルバロイと呼んで 差別しましたが、ローマ市民権をもち、ギリシャ語を話すとはいえユダヤ人であるパウロも このようなギリシャ的差別意識を持っていたのでしょうか? >>713 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第二章です。 バルバロイは、元々ギリシア人が異邦人の言語を聴くと、意味不明なバルバルと 聴こえたところから、バルバルと意味不明語を喋る者たちということでつけた 軽蔑語ですが、パウロスの時代の地中海世界では、現代の英語と同じく共通語と なっており、コイネーを喋れない者は野蛮人と軽蔑されました。 現代の米国で米語を喋れない人たちへの軽蔑と似たようなものです。 その上でパウロは古代人の標準からしても特に差別意識の強い最低人格に属する方です。 パウロスのみどころは最低人格から最高の神学が語られるという奇跡です。 とはいえ、パウロスにとって、ユダヤ人とギリシア語を話す人しかいなかったので バルバロイとは誰のことかと具体的な事になると、おそらくはガラティア伝道を済ました 後に書かれているので、ガラティア語を語るガラティア人を想定していたのでしょう。 つまり現在のトルコであるガラティア人たちを未開人と見下しているのです。 16,17節が本題ですね 「わたしは福音を恥としない」というのは、 ギリシア人から「キリストの復活という福音」を「ありえん」と馬鹿にされていた ので常々屈折させられていた上で毅然と決意表明している表現です。 「信仰に始まり信仰に至らせる」は、 神は、罪びとである人間に対して、神の側は誠実なる信仰(真実)を指し示した 人間側は、その神の信仰を受け取る事で、人間の信仰となる というパウロスの最高神学の簡潔な提示ですね バルトは「神の義は福音の中に啓示される。神のTreueから信仰(Glauben)へと」 と解釈している通りですね >>714 たしかにパウロの当時、ギリシャ語(コイネー)はリンガ・フランカとして今で言う英語に 近い位置づけにあったので、パウロ自身がギリシャ人ではないとしても ギリシャ語を解する者とそうでない者という識別はあったかもしれないですね そのうえで例えばガラテア人を念頭に置いて「未開の人」と書いたのかもしれません 「福音を恥としない」という表現は現代人からすると奇妙な表現に聞こえますが パウロの伝道当時は人が復活するわけがないとか十字架にかけられた罪人が救い主であるわけがない とか、そんな冷笑を浴びていたのでしょうね そういった軽蔑に対してはっきりとこの「愚かな」福音を信じることを誇りとする、という宣言なのでしょう さて2章ですが、律法を誇りながら律法に違反するユダヤ人に対しての批判を展開した章だと思いました 律法を与えられているから義となるのではなく、律法を行うことが義なのだから 律法を与えられたユダヤ人であろうと、与えられていない異邦人であろうと 行いに応じて等しく罪は裁かれ、行いに応じて等しく義とされる、ということだと思います もちろんここでは理屈上、律法を行うことが義であると展開していますが それを完璧に行えないのが人間ですから、この後いわゆる新興義認論へと パウロは論を展開していくことになると思います ここでの質問は16節の「わたしの福音によれば」という箇所です ここはクリスチャン共通の福音であれば、「わたしの」ということばは必要ないように感じます ここで敢えて「わたしの」と付け加えているのは、パウロが自分の宣教をある程度独自なものと 考えていたからなのでしょうか? >>715 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はマタイ14:22-33,マルコ6:42-52 16節の「わたしの福音によれば」。 他の新約では、定冠詞付きの「福音」か、「イエースース・クリストスの福音」ですが パウロスだけは、「私の福音」と語ります。「我々の福音」であるべきところをです。 さすがにおこがましいので写本の中には「わたしの」の削除しているものがあるほどです。 しかしパウロスにとって福音とは、私が、神によって啓示された福音なので 「私の福音」と語るわけですね。それを君たちに宣べ伝えるのであると。 つまり和紙先生のように自意識過剰な最低人格がそのまま「わたしの」に 表現されてしまった箇所です。 口語訳は「わたしの福音によれば」と訳していますが καταという前置詞は「〜よれば」というより「〜従って」という意味ですので 「わたしの福音に従って神が裁く」とパウロス先生は仰せなのです。 さすがに教会はこんなカルト的発想を容認できないので 文法的問題は脇に置いて、パウロス先生の省略表現であろうと解釈して 私の福音に拠れば 「神による最後の審判は神がイエースース・クリストスによってなされることにな っている」と解釈されています。 ちなみにフランシスコ会訳は、省略と解釈して 「私の伝えている福音」と補っています。 みなさん、パウロス先生擁護にかなりの努力をされています。 >>716 やはり教会的にも「わたしの」という形容はまずいと思ってたわけですね 原語的には「わたしの福音に従って」となれば、さらにパウロの我が強調されてしまいますね さて休日の割当ですが、ちょうどイエスの水上歩行の箇所ですね マタイではマルコにないペテロとイエスのやり取りが加えられています これはマタイ31節にあるように弟子の信仰の薄さを描くために挿入されたエピソードのように思われます しかしまたしてもペテロですねw また33節にあるように弟子の口からイエスを神の子であると発言させています このあたりはマルコに比してマタイではよりイエスの神格化が進んでいることを感じさせます 水上歩行といえば、わたしの知人に物理を専門とする人がいるのですが この人が常々、人間本気で心から信じれば水上歩行もできるのではないか、と語っていたのを 思い出します わたしはどちらかというと、この意見に否定的だったのですが、その人はおそらく未知の精神的な力が 物理現象にも介入できると考えていたのだと思います 量子力学には解釈によってそう思わせる部分もあるので、そんなことを考えていたのだと思います どちらにしても古代においては自然現象も現代ほど法則に従って振る舞っているという観念が 強くはなかったので、自然現象をも自由に統御できるイエスの奇跡というのは それなりに受け入れられたのだろうと思いました ルカ8:54 αὐτὸς δὲ κρατήσας τῆς χειρὸς αὐτῆς ἐφώνησεν λέγων. ἡ παῖς, ἔγειρε. αὐτὸς δὲ κρατήσας 男単主格+接+過分男単主格 彼は+で+属格を支配して 掴んで τῆς χειρὸς αὐτῆς 冠・女単属格+〃 手の+彼女の ἐφώνησεν λέγων. 三単過+現分男単主格 彼は叫んで+言うには ἡ παῖς, ἔγειρε. 冠・女単主格+二単現命 少女+あなた起きなさい スロージューサー訳 で彼は彼女の手を掴んで言うには 「少女、起きなさい」 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-54.htm ルカ8:55 καὶ ἐπέστρεψεν τὸ πνεῦμα αὐτῆς καὶ ἀνέστη παραχρῆμα καὶ διέταξεν αὐτῇ δοθῆναι φαγεῖν. καὶ ἐπέστρεψεν 接+三単過 そして+それが立ち帰った τὸ πνεῦμα αὐτῆς 冠・中単主格+女単属格 霊が+彼女の καὶ ἀνέστη παραχρῆμα 接+三単二過+副 そして+彼女は起きた+たちまち καὶ διέταξεν αὐτῇ 接+三単過+女単与格 そして+彼は命じた+彼女に δοθῆναι φαγεῖν. 過不定受+二過不定 与えられることを+食べることが スロージューサー訳 そして彼女霊が立ち帰った。 そしてたちまち彼女は起きた。 そして彼は彼女に食べるものが与えられるように命じた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-54.htm >>717 atheistくん、おはようございます。明日の聖句はローマ第3章です マルコでは弟子たちの「心が鈍くなっていた」と弟子批判で終わってますが マタイは弟子批判を回避するために、弟子たちに「神の子である」と言わせて います。趣旨が180度逆転し、教会の美談に変わっています ルカ8:56 καὶ ἐξέστησαν οἱ γονεῖς αὐτῆς. ὁ δὲ παρήγγειλεν αὐτοῖς μηδενὶ εἰπεῖν τὸ γεγονός. καὶ ἐξέστησαν 接+三複二過 そして+彼らは驚愕した οἱ γονεῖς αὐτῆς.冠・男複主格+女単属格 両親は+彼女の ὁ δὲ παρήγγειλεν αὐτοῖς 男単主格+接+三単過+男複与格 彼は+で+彼は命じた+彼らに μηδενὶ εἰπεῖν 代男与格+二過不定 誰にも〜ない+言う事 τὸ γεγονός.冠・二過分中単対格 起こったことを スロージューサー訳 そして彼女の両親は驚愕した。 で彼は彼らに起こったことを誰にも語るなと命じた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/8-56.htm >>720 そう言えば、「神の子」というのがどのような意味として使われたいたのかも気になります 純粋に神の子だから神そのものと思われていたのか、神(ヤハウェ)そのものではないが 多神教的なイメージでヤハウェの子だから神と思われていたのか、神性をもつといった漠然たる イメージで捉えられていたのか、神から権威を授かった人間という意味だったのか等々 福音書は後代の変更や追加もあるので、すべて等しい意味で使われていたわけではないでしょうが 三位一体の神学が受け入れられる以前の福音書が書かれた当時、あるいはその元となる口承段階での 意味合いというのはどうしても気になりますね >>722 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第三章です。 「神の子」。聖書に拠れば、神が土を成形し、息(霊)を吹き込み、 土という肉と、神の息である霊を結合させることで、主体的な意志と人格を持つ 魂となったわけですから、人はみんな「神の子」であると私は思うのですが 「人の子」にせよ、「神の子」にせよ、称号として特別な意味を持つ場合があります。 このペテロをはじめ船の中にいた者たちの「ほんとうに、あなたは神の子です」 という発言は、主イエースースを礼拝しながらの発言ですので、ほとんど神扱いです。 詩編69:1神よ、わたしをお救いください。大水が流れ来て、わたしの首にまで達しました。 69:2わたしは足がかりもない深い泥の中に沈みました。 わたしは深い水に陥り、大水がわたしの上を流れ過ぎました。 69:3わたしは叫びによって疲れ、わたしののどはかわき、 わたしの目は神を待ちわびて衰えました。 107:23舟で海にくだり、大海で商売をする者は、 107:24主のみわざを見、また深い所でそのくすしきみわざを見た。 107:25主が命じられると暴風が起って、海の波をあげた。 107:26彼らは天にのぼり、淵にくだり、悩みによってその勇気は溶け去り、 107:27酔った人のようによろめき、よろめいて途方にくれる。 107:28彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い出された。 107:29主があらしを静められると、海の波は穏やかになった。 107:30こうして彼らは波の静まったのを喜び、主は彼らをその望む港へ導かれた。 107:31どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、 主に感謝するように。 107:32彼らが民の集会で主をあがめ、長老の会合で主をほめたたえるように。 海の水の危機から救出しうるのは神だけですからね ルカ9:1 Συγκαλεσάμενος δὲ τοὺς δώδεκα ἔδωκεν αὐτοῖς δύναμιν καὶ ἐξουσίαν ἐπὶ πάντα τὰ δαιμόνια καὶ νόσους θεραπεύειν Συγκαλεσάμενος δὲ 過分中動男単主格+接 呼び寄せて+で τοὺς δώδεκα 冠男複対格+数詞無変 12を ἔδωκεν αὐτοῖς 三単過+男複与格 彼は与えた+彼らに δύναμιν καὶ ἐξουσίαν 女単対格+接+女単対格 力を+そして+権威を ἐπὶ πάντα τὰ δαιμόνια 前+中複対格+冠・中複対格 〜の上に+諸神霊 καὶ νόσους θεραπεύειν 接+女複対格+現不定 そして+諸病を+癒すこと スロージューサー訳 で12人を呼び寄せて、彼ら彼らに諸神霊に対する力と権威を、 そして諸病を癒すことを与えた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-1.htm >>723 自然現象を自由に統御できるのは自然を作り出した創造主である神のみということで マタイでも神ということに重きをおいて語られているということですね さてローマ3章です 前章でユダヤ人でも異邦人でも神の元では等しいということを強調していたので この章では、まずユダヤ人の優れている点を取り上げようとします 2節で「それは、いろいろの点で数多くある。」と言っておきながら 結局9節でわたしたち(ユダヤ人)にまさったところなど絶対にないと言ってます そこから話は義人などひとりもいないのだから、人が義とされるのは、律法による行いではなく ただイエス・キリストのあがないによるのであって、人はそのイエス・キリストを信じることによって 義とされるのだ、という例の信仰義認論へと移っていきます ここでの質問は、直接的にパウロの文言についてではないのですが、それに関連するものです 25-26節にあるように、パウロ的には神は今までに犯された罪は忍耐を持って見逃してきたが それは今のときに神の義を示すためだと考えています そうするとキリストのあがないを与えられて以降の人は信仰によって義とされる道が開かれますが キリスト以前の人、特に神(ヤハウェ)を知らなかった異邦人には信仰によって義とされる道は 存在しなかったことになります(今までの罪は見逃されてきただけであって義とされるわけでは ありません) とすると、これらの人々は復活のときにすべて義とされる道、すなわち救いが閉ざされるということに なってしまいそうです なぜなら「義人はいない、ひとりもいない」のですから このあたりはパウロ的にはどのように処理しているのでしょうか? 神を信仰していたユダヤ教徒はまだしも キリスト以前の異邦人は端的に言って、全滅ってことでしょうか? >>725 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第四章です。 9節の「絶対にない」は、ου παντωςを全否定と解釈した訳ですが、 パウロは全否定の場合はπαντως ου(1コリ16:22) 部分否定の場合はου παντως(1コリ5:20)にしていますので、ここは部分否定です 「必ずしもそうではない」ぐらいです。 2節で多くの点でユダヤ人は優れていると断言したのですが、実は 神の言が彼らに預けられたという一点しか挙証できなかったのですが パウロはユダヤ優越主義者です。なにがなんでもユダヤ人が優れていると考えている わけですが、「罪人」であるという点に関しては必ずしもユダヤ人も「罪人」である から、異邦人と同様で必ずしも優れていないということです。 26節「神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされる」 神が能動的に「義」になるわけです。 神は神である故にアプリオリに義なのではなくて、 動的に活動することによって「義」をわれわれに示すわけです。 それがイエスの受肉であり、十字架の贖いです。 人類のすべての罪はこれにより代償されました。 なので、今までは律法遵守により義とされましたが、 これからは、十字架の贖いを信ずると義とされるようにルールチェンジされたわけです われわれ生きている者も、死んだ者も、このルールチェンジ下です。 ユダヤ人も異邦人も女性も男性も生きている者か死んだ者か、何の区別なく この新ルールの下です。 ルカ9:2 καὶ ἀπέστειλεν αὐτοὺς κηρύσσειν τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ καὶ ἰᾶσθαι [τοὺς ἀσθενεῖς], καὶ ἀπέστειλεν αὐτοὺς 接+三単過+男複対格 そして+彼は派遣した+彼らを κηρύσσειν 現不定 宣べ伝えるために τὴν βασιλείαν τοῦ θεοῦ 冠・女単対格+冠・男単属格 王国を+神の καὶ ἰᾶσθαι 接+現不定 そして+癒すために [τοὺς ἀσθενεῖς], 冠・男他複対格 病人らを スロージューサー訳 そして彼らを派遣した。神の王国を宣べ伝えるために。 そして病人らを癒すために。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-2.htm >>726 一応ユダヤ人の優れているところを挙げようとしたけども 結局神の言を授けられたことしか挙げられなかったということですね パウロ的にはユダヤ人に配慮しつつ、ユダヤ人と異邦人の区別なく救われるという福音を説くのに 腐心したのだと思います > これからは、十字架の贖いを信ずると義とされるようにルールチェンジされたわけです これは分かるのですが、疑問は「これまで」のことです ちょうどイエス以後に生きる人が信仰によって義とされるかされないか判別されるように イエス以前の人たちも同様の判別基準に従うことになるはずなのに、イエス以前の異邦人は そもそもイエスを知りませんから、十字架の贖いを信じる信じないもないことになります もちろん神(ヤハウェ)も信じていませんから、信仰を基準に裁かれるとしたら イエス以前の異邦人は理屈上、全滅となるはずです パウロはこれをどう考えたのか、というのが分かりません 考えられるとしたらローマ1章20節にあったように、異邦人にもいわゆる「一般啓示」という形で 神は示されているのだから、それを信じていれば義とされる、というロジックですが この一般啓示そのものがわたしには屁理屈だとしか思えません なぜならば民族によって自然や良心の由来に対する説明は異なり 必ずしも唯一の神には帰着しないからです さて4章ですが、ここではアブラハムを取り上げて、ユダヤ人の肉による祖であるアブラハムも 行いではなく信仰によって義とされたのだから、割礼を受けたものだけが義とされるのではなく 割礼者も無割礼者も同様に信仰によって義とされるのだ、という内容で 前章のテーマが反復されているようです この章に関する質問は5節です 「不信心な者を義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる」というのは、どういうことでしょうか? 律法に沿った行いができない者でも義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる、なら分かるのですが これはこれまで不信心で罪を犯してきた人であっても、そんな人でさえ信仰によって義としてくれる神 を信じる人は義とされる、くらいの意味でしょうか? >>728 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第五章です 人は肉と霊が結合し人格主体の魂となるわけですが、死ぬのは肉のみで 一旦、魂となったら、肉の死後も魂は死後の世界でとどまるわけです。 で、最後の審判を待っているわけです。2000年前に十字架の贖いによって ルール変更があったことは死後の世界で魂として待機している人たちもご承知 なのです。主イエースースはわざわざ死んで、黄泉の国に行かれたという設定と なってますから。なので生きている我々と同じく信ずるか信じないか、人格主体 である魂は選択を迫られるという話では無いでしょうか。 さて五節は、パウロスの詭弁なので、意味不明になっている箇所です。 パウロスの論旨は単に 前節で「働く人」には、働きによって報酬がある。 五節では、「働かない人」も神によって賃金が支払われますよ。 です。 1.五節の「働きはなくても」は、前節の働く人に否定をつけただけの同じ単語 なのですが、位相が違います。前節は単に労働者ですが、5節はユダヤ教では 「律法を実践しない人」という意味になるのでず、パウロスはこの意味で使っています。 「不信心な者」は、つまり「罪人」の言い換えです。 「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」 を変換すると 「律法を実践しない、罪人」を義とする神を信ずる者は、その信仰が義とされる です。 「律法に沿った行いができない者でも義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる」 と素直に言えばよいのに、労働者の比喩を出したので、論理がこんがらがって 意味不明になった箇所ですね 困った人です。 ERROR! ERROR: 鍵が無効です。 なんじゃあ。。。これわああああああああああ >>729 パウロがそういったロジックを持っていたかどうかは別として なるほど、そういうロジックは成り立ちそうですね イエスが黄泉の国に行ってそこで福音を説いていれば イエス以降の人間と条件は同じになりますからね 5節に関してはやはり意味をなさないということなのですね 「不信心な者」を「罪人」と言ってくれれば誤解を生じる恐れもなかったでしょうにね さて5章ですが、ここはアダムとイエスを対照させて、罪から死に至る運命が 恵みから永遠の命へと転換していったことを述べた章ですね 19節はそれを端的に表した文章だと思います 6節でも「不信心な者」と出てきますが、これも8節で罪人に言い換えられていますね この章はイエス・キリストを歴史の転換点と捉える視座から語られた、神学的に非常に重要な章だと 思いますが、同時に同語反復的に同じことを語っているため、やや冗長な印象を与える章に なっているようにも感じます ここでの質問は14節の「このアダムは、来るべき者の型である」という箇所です 前文を受けて「この」アダムと言っているので、このアダムは創世記のアダムだと読めるのですが 来るべき者の型とはまさにイエス・キリストだと考えられます つまり神学的に言う「第二のアダム」だと考えられます 「このアダム」とは創世記のアダムなのか、第二のアダム(イエス・キリスト)なのか、どちらなのでしょうか? >>732 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第6章です 14節の「このアダムは、来るべき者の型である」 Αδαμ ος εστιν τυπος του μυλλοντος. アダム この者は 彼は〜である 型 未来人の 「アダム、この者は未来人の型である」 μυλλοντος.は、「まさに来ようとしてる」としているという動詞の現在分詞で 冠詞が付されていることから名詞化(男単属格)されているので「来たるべき者」という訳 自体は正確な名訳です。でも意味がわかりにくい。 端的に言うと、論旨は「未来の者」です。 つまり アダムからモーセまでの間において アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者が アダムと同じく死の支配を免れなかった原因は アダムがプロトタイプだったので、 アダムの子孫はプロトタイプのアダムの罪を継承しているということです。 アダムは子孫たちのプロトタイプであるというのが論旨ですので 「この者」は「創世記のアダム」を指しています。 ルカ9:3 καὶ εἶπεν πρὸς αὐτούς. μηδὲν αἴρετε εἰς τὴν ὁδόν, μήτε ῥάβδον μήτε πήραν μήτε ἄρτον μήτε ἀργύριον μήτε [ἀνὰ] δύο χιτῶνας ἔχειν. καὶ εἶπεν πρὸς αὐτούς. 接+三単二過+前+男単対格 そして+彼ら言った+〜へ向けて+彼ら μηδὲν αἴρετε 否定小辞+二複現命 あなた方は持ち上げるな εἰς τὴν ὁδόν, 前+冠・女単対格 〜の中へ+道 μήτε ῥάβδον 否定小辞+女単対格 〜もなく+杖 μήτε πήραν 否定小辞+女単対格 〜もなく+旅の袋 μήτε ἄρτον 否定小辞+男単対格 〜もなく+パン μήτε ἀργύριον 否定小辞+男単対格 〜もなく+銀貨 μήτε [ἀνὰ] δύο χιτῶνας ἔχειν. 否定小辞+前+数詞+男複対格+現不定 〜もなく+づつ+ふたつ+下着+持つこと スロージューサー訳 そして彼は彼らに向けて云った。 「道中、何も持って行くな。杖も旅袋もパンも銀貨も。 二枚の下着を持つな。」 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-3.htm ルカ9:4 καὶ εἰς ἣν ἂν οἰκίαν εἰσέλθητε, ἐκεῖ μένετε καὶ ἐκεῖθεν ἐξέρχεσθε. καὶ εἰς ἣνἂν οἰκίαν 接+前+(女単対格+小辞+女単対格) そして+〜の中へ+〜者は誰でも+家 εἰσέλθητε, 二複二過接 あなた方が入っていた ἐκεῖ μένετε 副+二複現命 そこで+あなた方は留まれ καὶ ἐκεῖθεν ἐξέρχεσθε. 接+副+二複現命 そして+そこから+あなた方は出ていけ スロージューサー訳 あなた方が家の中へ入ればどこでも、そこに滞在しなさい。 そしてそこから出かけなさい。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-4.htm >>733 なるほど、「このアダム」は創世記のアダムで、来るべき者はアダムの子孫という解釈ですね そしてアダムは子孫が罪を継承したという点で子孫のプロトタイプとであるという意味で「型」 と言われている、ということですね わたしは「来るべき者の型」をイエス・キリストと解釈していました で、英訳で調べてみたら、どうやら「型」ではなく、「来るべき者」がイエス・キリストで 「型」というのは、アダムがイエス・キリストのプロトタイプになったという意味で「型」だという解釈のようです アダムが罪人という意味でその後の子孫のプロトタイプになったように イエスも恵みという意味でその後の人類のプロトタイプになる、という形式上の類似性から アダムはイエスの型(プロトタイプ)と表現されているようです つまりアダムもイエスもその後の人類のプロトタイプであるがゆえに アダムのプロトタイプという特徴が、まさにイエスのプロトタイプとなっている、という感じのようです たしかにこの解釈であれば15節以降にうまくつながっていくように思います 来るべき者は多くの訳が One[one] who was coming[to come] のように訳し 意訳のCEVは、はっきりと In some way Adam is like Christ who came later. のように訳しています 来るべき者がイエス・キリストと解釈されているのは、おそらくそれが単数で示されているからだと思います さてローマ6章です ここは非常に明快な論旨になっているように思いました イエスの十字架と復活を信じる(にあずかる)我々は、イエス同様、罪に対して死に、神に対して生きる、 罪の報酬は死であったのだから、罪から解放され神に生きる者は永遠の命を得る、という論旨だと思います ここでの質問は枝葉末節に属するような質問なのですが 19節の「わたしは人間的な言い方をするが」という「枕詞」がなぜ置かれているのかがよく分かりません 「あなたがたの肉の弱さゆえ」と書いてあるところから、いくら罪に死に神に対して生きているとはいえ いまだ肉を持つ身(人間的)であるために罪を犯すのだから きよくあるよう心がけなければならない、という感じで 肉の弱さをもつ人間であるということに目を向けさせて戒めるためなのでしょうか? >>737 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第7章です。 私はパウロスがぐだぐだ詭弁を弄している箇所だと思います。他の手紙ででも。 パウロスの論旨通り、信者が罪から自由にされたのであれば、信者は罪を 犯す事が無いはずですが、現実問題として非信者も信者も罪を犯します。 パウロスの論旨は現実的に破綻しています。それ故パウロスは、常に信者に対して 「罪を犯すな、清くあれ」と呼びかけ続けるのです。矛盾であり詭弁です。 さて、19節の「わたしは人間的な言い方をするが」です。 これはパウロスの傲慢さが出ている箇所です。ぐだぐだ詭弁を弄し、比喩を使っている わけですが、論理が矛盾していたり、下手な比喩を使っている原因は、 読者のローマ人信徒らが、未熟で、肉的な弱さを持っているから 私はズバリ霊的な言い方で真理を語る事をせず、人間的にぐたぐだ比喩的に述べている いろいろ矛盾しているが揚げ足取りをせずをしなさんなよ、という意味です。 社会的訓練をうけた常識人ですと 「下手な比喩を使って申し訳ございません。何とか理解を賜りますように」と 謙虚になるところを、威張り腐った言い方をするのがパウロス先生なのです 最低人格の発露です。 おっさんも、 みじめな人生やろうけど、税金==払え==よおおお あははは >>738 けっこう印象は違うんですね わたしは現実問題の部分ではなく、単に神学的なロジックの部分だけを見て、すっきりしていると思いました もちろん現実的に「罪に死んだ」と言っても罪を犯しますからパウロは口うるさく説教を続けるわけですね 19節の「人間的な言い方をするが」という部分は、要はその現実に目を向けさせる文句ではあるけど それはパウロ自身の説得力のなさを隠すための傲慢な言い回しという解釈ですね さてローマ7章です なんかごちゃごちゃ言ってますが、要はキリストによって律法から解放された、しかし律法は 罪を自覚させ、罪が罪として現れるためのものであって、律法自体は善なるものである、 そして律法が善なるものと知りながら自分は欲しない悪を行っている、じゃあこんな惨めな自分を 救ってくれるのは何か?それがキリストだ、っていうようなことを述べた章だと思いました ともかくあまりにも捏ねくり回し過ぎていて、もっと整理してから書けよと言いたくなりますw 特に冒頭4節あたりまでがよく分かりません 1節の律法は人を生きている間だけ支配する、というのはいいとして、なぜそれが2節のように 夫が死ねば「夫の」律法から解放されるとなるのか、まるでわかりません 1節の律法は夫の律法などという個別の律法ではなく普遍的な律法のことだろうし 夫が死ねば他の男に行っても姦淫とならないというのは、まさに普遍的な立法に照らして 言われるべきことで、「夫の」などという個別性は必要ないと思います おそらくこれは4節以降のキリストを通して律法に対して死んだからキリストに行ってもいいということを 言うための喩えなんでしょうが、論理がぐちゃぐちゃで返って混乱します そのあとも、もって回ったような文章が続きますが、25節の自分は心では神の律法に仕えているが 肉では罪の律法に仕えている、という告白がこの章の要点なのだと思いました >>740 atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はマタイ16:13-20です。 四節までが難解なのは、パウロスは 第一に生粋のユダヤ主義者でとりわけ熱心なパリサイ人であったので パウロスにとっては律法は絶対なのです。 でもパウロスがキリスト教に転向した後のパウロス神学では論理的には 律法に死を宣告し、信仰による救いを説くのですが、いかんせん 「律法の死」について根源的な抵抗がパウロス自身にあり、パウロスの論理が 迷走するのです。それでわかりにくいのです。 2,3節では、律法によって支配している者(女を支配している男)の死がテーマと なっていますが、四節では論理がすり替わり、支配されている者が死ぬことになります。 つまりキリスト者がキリストの十字架の贖いの利益を受けることで、 キリスト者自身が、律法に対して死んでいるという話にすり替わっています。 論理的に2,3節を受けるならば、「キリスト者にとって、キリスト者を支配していた 律法が死んだ」と言うべき箇所が、逆転しているわけです。パウロスがよくやる逆転の詭弁です。 さてご質問ですが、日本の法律でも配偶者が死んだら、別の人と結婚できるのでは ないでしょうか。古代ユダヤでもそうであったのでしょう。 15-24節が一人称単数で語られるパウロスの告白の個所です。 24節の「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」がパウロスの本音ですね 律法を守るべきなのに、罪を犯してしまう自分というみじめさですね 最低人格なのに、最高神学をパウロスが語られるのは、このみじめさの自覚が ある人だからですね。 ルカ9:5 καὶ ὅσοι ἂν μὴ δέχωνται ὑμᾶς, ἐξερχόμενοι ἀπὸ τῆς πόλεως ἐκείνης τὸν κονιορτὸν ἀπὸ τῶν ποδῶν ὑμῶν ἀποτινάσσετε εἰς μαρτύριον ἐπ’ αὐτούς. καὶ ὅσοι ἂν 接+関係代名詞男複主格+小辞 そして+仮に〜する者らがいれば μὴ δέχωνται ὑμᾶς, 否定+三複現接+二複対格 彼らは受け入れない+あなた方を ἐξερχόμενοι 現分男複主格 出て行く時は ἀπὸ τῆς πόλεως ἐκείνης 前+冠・女単属格+〃 〜から+都市+その τὸν κονιορτὸν 冠・男単対格 埃を ἀπὸ τῶν ποδῶν ὑμῶν 前+冠・男複属格+二複属格 〜から+両足+あなたがたの ἀποτινάσσετε 二複現 あなたがたは振り落しなさい εἰς μαρτύριον ἐπ’ αὐτούς. 前・中単対格+前・男複対格 〜のために+証し+〜の上に+彼ら スロージューサー訳 そして仮にあなたがたを受け入れない者がいるならば その都市から出て行く時には、 あなたがたの両脚から埃を振り落しなさい。 彼らに対する証しのために。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-5.htm ルカ9:6 ἐξερχόμενοι δὲ διήρχοντο κατὰ τὰς κώμας εὐαγγελιζόμενοι καὶ θεραπεύοντες πανταχοῦ. ἐξερχόμενοι δὲ 現分男複主格+接 出て行って+で διήρχοντο κατὰ τὰς κώμας 三複未完+前・冠・女複対格 彼らは巡り歩いた+〜ごとに+村々 εὐαγγελιζόμενοι 現分中動男複主格 朗報を伝え καὶ θεραπεύοντες πανταχοῦ.接+現分男複主格+副 そして+癒して+至る所で スロージューサー訳 で彼らは出て行って、村々ごとに巡り歩き朗報を伝え そして至る所で癒していた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-6.htm >>741 たしかに律法の死を語りながら、くどいように律法の意義を語りますからね パウロの中には律法に対するアンビバレントな感情があるのかもしれません 4節あたりまでの複雑さは、たしかに夫の律法という不自然な言い回しだけでなく 律法に関して支配する側の死と支配される側の死が入れ替わってますね ともかくここは強引に律法からの開放を説明するためにこじつけたように見えます 配偶者が死ねば別の人と結婚できるという箇所に特に異論はありません このような律法はある程度普遍的な律法だと思うからです それゆえにわざわざ「夫の律法」と語る意味がわからなかった、ということです さて今日のマタイですが、イエスが自分の正体を弟子たちに聞き ペテロが神の子キリストであると答え、それに対してイエスがペテロに地上の権威を授ける箇所ですね ここは正直言って、創作だと思います 18-19節はあまりにも有名でよく引用されますが、それは教会の権威、特にカトリック教会の権威を 基礎づける箇所だからだと思います ここでの質問は18節の「黄泉の力」です 黄泉ということはおそらくギリシャ語ではゲヘナではなくハデスだと思うのですが そうだとするとハデスはヘブライ語のシェオルと同様、神に対抗するサタンの居場所ではないように 思います それがここではサタンの力のような意味で用いられているということは ハデス→死→罪→サタンと関連付けがなされて、結局、死がサタンと結びついてしまったため 死者の居場所であるハデスがサタンの領域のように考えられるに至った、ということなのでしょうか? >>744 atheistくん、おはようございます。明日の聖句はローマ第8章です。 「夫の律法」。原文は「男の法」ですが、 「男が女を所有物として支配占有する法」というのが古代感覚ですね。 婚姻は古代にあって、父の所有物から、夫の所有物への所有権の移管なので 古代人としても殊に差別主義者であるパウロスは「男の」と強調しているのだと 思います。現代人のatheistくんには抵抗ある考え方でしょうし、 現代キリスト教はその辺をうまくごまかすと思います。 例えばフランシスコ会訳や新共同訳と新改訳2017は 「夫の律法」(直訳)を「自分を夫に結びつけていた律法」に変更しています 新改訳第三版は「夫に関する律法」だったので洗練された改竄訳のフランシスコ会訳を ぱくりましたね。この訳だと現代人も違和感なく読めますので。 18節の「黄泉の力」 原文は、「ハデースのピュレー」です。 スロージューサー訳は「冥府の門」。フランシスコ会訳は「陰府(よみ)の国の門」。 ピュレーに「力」という意味はなく「門」なのですが、口語訳は「門」は「力」を 象徴しているとして意訳しているようですね。 「冥府の門」は、「生」を断ち切り「死」の支配下に置く力を持つと考えられていた ようで、つまるところ「岩の上のわたしの教会は死に打ち勝ちますよ」ということを 比喩的に表現しています。 「陰府の門」は、口語訳イザヤ38:10, 「死の門」が口語訳詩編107:18 などにあり、その表現を真似たものだと思います。 ルカ9:7 Ἤκουσεν δὲ Ἡρῴδης ὁ τετραάρχης τὰ γινόμενα πάντα καὶ διηπόρει διὰ τὸ λέγεσθαι ὑπό τινων ὅτι Ἰωάννης ἠγέρθη ἐκ νεκρῶν, Ἤκουσεν δὲ Ἡρῴδης 三単過+接+男単主格 彼は聞いた+で+ヘローデースは ὁ τετραάρχης 冠・男単主格 四分領主は τὰ γινόμενα πάντα 冠・現分中複対格+中複対格 起こったことらを+すべてを καὶ διηπόρει 接+三単未完 そして+彼は途方にくれていた διὰ τὸ λέγεσθαι 前+冠中単対格・現不定受 〜よって+言われていたこと ὑπό τινων 前+男複属格 〜によって+何者から ὅτι Ἰωάννης 接+男単主格 〜と+イオーアンネースは ἠγέρθη ἐκ νεκρῶν,三単過受+前+男複属格 彼は起きた+〜から+死者ども スロージューサー訳 四分領主ヘローデースは起こったことら全てを聞いた。 そして何者からによって言われていることによって途方に暮れていた。 死者どもからイオーアンネースは目覚めた、と。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-7.htm >>745 たしかに「夫に関する律法」だとまったく違和感がなくなってしまいますねw 「黄泉の力」の「力」は「門」だったんですね ことさらサタンの力を強調したというより、単純に死を象徴的に示して 教会はそれに打ち勝つということを述べている、ということですね イザヤや詩篇にも類似表現があることを鑑みると、マタイがことさら死とサタンを結びつけて 表現したわけじゃないようですね >>747 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第8章です 翻訳聖書はある意味、違和感なく読めるように苦心されているわけです。 私には改竄のように思われますが、 神学との整合性が彼らにとってはなにより重要なのでしょう。 ルカ9:8 ὑπό τινων δὲ ὅτι Ἠλίας ἐφάνη, ἄλλων δὲ ὅτι προφήτης τις τῶν ἀρχαίων ἀνέστη. ὑπό τινων δὲ 前+男複属格+接 〜によって+ある者たち+で ὅτι Ἠλίας ἐφάνη, 接+男単主格+三単二過受 〜と+エーリアスが+彼が現れた ἄλλων δὲ ὅτι 男複属格+接+接 他の者たち+で+〜と προφήτης τις τῶν ἀρχαίων 男単主格+〃+冠・男複属格 予言者が+誰か+昔の者らの ἀνέστη.三単二過 彼は起きた スロージューサー訳 で、ある者たちはエーリアスが現れた、と。 で別の者たちは昔の者らの誰か預言者が起き上がった、と。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-8.htm >>748 翻訳もある種の解釈ですから純粋に原語の意味を伝えることは不可能ではありますが 個人的にはできる限り原語の意味に沿った訳を心がけ、その上で翻訳言語では 意味が分かりにくいところに訳註を付けるのが好みです とはいえ、聖書は何よりもまず信仰のための聖典ですから どうしても普通はその信仰を反映した訳にはなってしまいますね また普通の人が読む際には意味不明の難解な文章が続いてしまうと挫折してしまいますから その意味で多少の「歪曲」はあれ、翻訳言語だけで意味が通る訳も必要なのだろうと思います さてローマ8章ですが、前半で霊肉二元論、後半からいわゆる予定説にあたることが 語られていると思いました いろいろと疑問点があるのですが、まず11節で語られる御霊によって死ぬべきからだをも生かして くださる、というのがよく分かりません それまでは10節で語られているように体は罪ゆえに死んでも霊は義ゆえにいきているといった はっきりとした霊肉二元論が展開されていますが、ここでは御霊によって体も生きるという形で 体さえも霊によって生かされると語られています ここは現在の体ではなく復活の体を指しているのでしょうか? それから20節では被造物が虚無に服したのは神によると語られていますが これだとまさに神による自作自演の救いとなってしまいそうです ここは何か別の解釈なり字面以上の意味なりがあるのでしょうか? 28節以降からは「ご計画」「予め定め」「神の選ばれた者」と、予定説を裏付けるような文言が並んでいます こういった予定説的な考えはどこからでてきたのでしょうか? >>750 atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第九章です。 10節の論理は意味不明です。というのは 「からだは罪のゆえに死んでいても」だと、現在進行形で「身体が死んでいる」と パウロスが主張していることになってしまうわけですが、我々はまだ死んでいなてので 事実に反します。そこでアウグスティヌスの『ロマ書注解』以来、パウロスは大袈裟だし 「いずれ必ず死ぬべき」というところを「死んでいても」と表現したのだ。 こうすることでよりピッビッドになるんだという解釈や、 いやいや比喩だという説。パウロスにとってはこの身体は本当に死んでいる存在なんだという説 バプテスマ体験では、古い自分は死ぬのでそのことだという説など諸解釈が出されています。 が、パウロスはここで厳密な意見を述べているわけではなくて、テキトーにかっいい言い回しを しているだけでしょう。 「霊は義のゆえに生きているのである。」を字義通りに読めば霊肉二元論です。 霊肉二元論はキリスト教的には、異端のグノーシス主義の発想なので、キリスト教 では受け入れません。そこでキリスト教正統派は、ここで解釈をかましますが 省略します。 さてパウロス自身も10節のまずさを自覚したので11節で修正します。 それがご質問の個所「死ぬべきからだをも生かしてくださる」です。 「現在、われわれの身体は死んでいる」といったにもかかわらず 「信者の身体は永遠に生かされるのですよ」と矛盾した修正をしているわけです。 10節までの論理と明らかに矛盾するので、このフォローを読むと 混乱してしまうわけです パウロスは困った奴なのです >>750 20節 「被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによる」 被造物が、虚無(=死すべき定め)なのは、 自分から望んだのではなくて 神が、被造物を死すべきものとして創造されたのである という意味ですね。 で、その死すべき被造物が神の子を待望しているのは、(18節) 人間の一部が神に救われて神の子らになると、地上の他の各種の生物たちにも 永遠の命が与えられ被造物世界全体が救われるからです。 最初に神が被造物に永遠の命があるようにクリエイトしておけば よかったのに、自作自演ぢゃんという意見はありうるかもですね ただそれより、全被造物が救済されるならば、 罪の結果死ぬことになった、アダムの原罪など余計なことを言うなよ という批判はありうるかもです。 が、パウロス先生ですら人間以外の生物も罪の結果、死ぬことになったのだという 理論を振りかざせなかったので、こういう主張になっているのでしょう。 8:29は、完全に予定説ですね。 だけども新共同訳注解などプロテスタントメインラインは、ここを神学的思弁である 予定説と解釈してはいけない、福音が語られているのであると主張していますね なぜなんでしょう。パウロスオリジナルの予定説なのにね へへへ タバコ吸うから、空気清浄機のエアコンだな、しゃないな 25万か。。。ま、ええか。・。・。 やっぱ、エアコンは、ダイキンが、ええらしいな。。。 わかってるか。。。。へへへ。。。買い替えやどおおお せやから。・。・。ゆううううてるやろおお ルカ9:9 εἶπεν δὲ Ἡρῴδης. Ἰωάννην ἐγὼ ἀπεκεφάλισα. τίς δέ ἐστιν οὗτος περὶ οὗ ἀκούω τοιαῦτα; καὶ ἐζήτει ἰδεῖν αὐτόν. εἶπεν δὲ Ἡρῴδης. 三単二過+接+男単主格 彼は言った+で+ヘローデースが Ἰωάννην ἐγὼ ἀπεκεφάλισα.男単対格+一単主格+一単過 イオーアンネースを+私は+私は打ち首にした τίς δέ ἐστιν οὗτος 疑+接+三単現+男単主格 誰か+で+彼は〜である+この者は περὶ οὗ ἀκούω τοιαῦτα; 前+男単属格+一単現+中複対格 〜について+彼+私が聞く+これらのことを καὶ ἐζήτει 接+三単未完 そして+彼は求めていた ἰδεῖν αὐτόν. 二過不定+男単対格 まみえることを+彼と スロージューサー訳 でヘローデースが言った。「私はイオーアンネースを打ち首にした。 で、彼についてこれらのことを聞くこの者は誰か。 そして彼は彼とまみえることを求めていた。 参考に https://biblehub.com/text/luke/9-9.htm >>751 10節で霊肉二元論に寄りすぎてしまったため11節で修正してるってことですね たしかに10節から11節への展開は問題があって、これを整合的に解釈することは けっこう難しいと思います まあ昔から、ああでもないこうでもない、とやってたわけですねw >>752 自作自演的な表現はヘブライ語聖書でも「神はパロの心を頑なにした」みたいな形で 出てきますよね きっちり論理を通そうと思うと、いろいろと問題が出てくるのが聖書だと思います ですから結局その中心思想と言うか、核の部分を軸に あとはよしなに読んでいくしかないのかもしれませんw わたし自身はキリスト教においては予定説はいろいろと問題ありだと思いますが (それゆえにカトリックやプロテスタントメインラインはこういった箇所を予定説にならないよう 解釈するんでしょうが)、まあどう観てもパウロ自身ははっきりと予定説言っちゃってますよねw さて9章ですが、前章につづいて予定説、しかも二重予定説的な論が展開されています まさに上で書いたパロの心を頑なにした部分が出てきてますw 21節の表現から分かるように、神と人間の間には造った者と造られた者の明確な違いが 意識されています あるいは11節にあるようにすでにして生まれる前から神の選びがあり、それによって決定づけられている のが人間であるという発想があります この章はまさにカルヴァン派の主張を全面展開したような章で、いかにパウロのこの発想の影響力が 強かったのかが分かります ここでの疑問は冒頭部です パウロの言う「大きな悲しみ」「絶えざる痛み」とは何なのでしょうか? また3節ではユダヤ人のためなら自分がキリストから離されても厭わないとまで言ってますが いったいこれはどういう意味でしょうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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