>>680
いえいえ、詩篇に限りませんが、聖書を読んでいると様々な疑問が湧いてくるので
その都度質問に答えていただけるのはありがたい限りです

さて85章です

この章では過去において神が民の不義を赦し怒りを鎮められたことを引き合いに出して
現在の神の怒りを鎮める(民の苦難を取り除く)よう嘆願する詩であると思いました

この章で気になったところは10節です
救いとして、いつくしみとまこと、平和と義がともに成就する様を思い描いている箇所ですが
これは新約的なフィルターで観ると、愛と義という神の二大属性が地上において一致する様を
描いているように思えます
ともかく、たいへん美しい表現だと思います
しかし11節以降ではいつくしみということばは消え、まことと義に焦点が当てられているように見えます
いつくしみに対応する箇所はおそらく12節の「主が良いものを与えられるので、我らの国は
その産物を出し」という部分だと思いますが、そうするとヘブライ語聖所でしばしば出てくる
「いつくしみ」はより物質的・肉体的な恩恵に近いものであるように感じられます
新約に比べると、より現実的で現世的な趣きがあります
こう感じるのは新約がより精神的なもの、「永遠の命」といった、より彼岸的なものを感じさせる表現に
溢れていること、そういった新約に対する我々の解釈も、より彼岸的なものに傾斜してしまっていることと
関係しているように思われます

逆にヘブライ語聖書の伝統に照らして新約を再読してみれば
新約も、より此岸的な側面が見えてくるのではないかと思いました
イエスの「神の国はあなたがたの間(中)にある」というセリフも
心の内といった精神的なものではなく、人と人の間、この世で人と人が関わっているただなかに
あるのだ、といったように、より現世的、現実的な色合いを帯びてくるように感じました