>>700
十数人が徒党を組んで各地を歩き、時には神殿でちゃぶ台返しをしたり
落ち穂を拾って食べたり、取税人と一緒に食事をしたりしてますからね
傍目からはたしかにチンピラ集団に見えたかもしれないですw

さて再び詩篇に戻って、今日は88章です

この章は今までも何度かあった、神に対する悲痛な訴えかけではありますが
今までよりもはるかにその悲痛の度合は増しているようです
まるでヨブ記を読んでいるようです
また極めて個人的な訴えかけであることも、ヨブ記を思い起こさせます

今日の質問は10節から12節です
ここは修辞疑問のように読めます
つまり神は死んだ者のために奇跡は行わないし、亡き魂は起き上がることもないし
慈しみやまことは死者には宣べ伝えられないし、義は忘れの国(死の国?)には届かない
と読めます
しかし13節で筆者は「しかしわたしはあなたに呼ばわります」と言ってますから
10節から12節は筆者の絶望的な境遇を比喩的に表現したもののようにも読めます

現世主義的なユダヤ教では一般に死後の復活や救いについて語られることが少ないので
ここでは文字通り、死してしまえば神の救いは届かない、と言っているようにも読めますが
13節を鑑みると、10節から12節はあくまでも筆者の絶望的な境遇を
比喩的に表したもののようにも読めます

ここはどのように解釈するのが適切だと思われますか?