>>713
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第二章です。

バルバロイは、元々ギリシア人が異邦人の言語を聴くと、意味不明なバルバルと
聴こえたところから、バルバルと意味不明語を喋る者たちということでつけた
軽蔑語ですが、パウロスの時代の地中海世界では、現代の英語と同じく共通語と
なっており、コイネーを喋れない者は野蛮人と軽蔑されました。
現代の米国で米語を喋れない人たちへの軽蔑と似たようなものです。
その上でパウロは古代人の標準からしても特に差別意識の強い最低人格に属する方です。
パウロスのみどころは最低人格から最高の神学が語られるという奇跡です。

とはいえ、パウロスにとって、ユダヤ人とギリシア語を話す人しかいなかったので
バルバロイとは誰のことかと具体的な事になると、おそらくはガラティア伝道を済ました
後に書かれているので、ガラティア語を語るガラティア人を想定していたのでしょう。
つまり現在のトルコであるガラティア人たちを未開人と見下しているのです。

16,17節が本題ですね
「わたしは福音を恥としない」というのは、
ギリシア人から「キリストの復活という福音」を「ありえん」と馬鹿にされていた
ので常々屈折させられていた上で毅然と決意表明している表現です。
「信仰に始まり信仰に至らせる」は、
神は、罪びとである人間に対して、神の側は誠実なる信仰(真実)を指し示した
人間側は、その神の信仰を受け取る事で、人間の信仰となる
というパウロスの最高神学の簡潔な提示ですね

バルトは「神の義は福音の中に啓示される。神のTreueから信仰(Glauben)へと」
と解釈している通りですね