>>714
たしかにパウロの当時、ギリシャ語(コイネー)はリンガ・フランカとして今で言う英語に
近い位置づけにあったので、パウロ自身がギリシャ人ではないとしても
ギリシャ語を解する者とそうでない者という識別はあったかもしれないですね
そのうえで例えばガラテア人を念頭に置いて「未開の人」と書いたのかもしれません

「福音を恥としない」という表現は現代人からすると奇妙な表現に聞こえますが
パウロの伝道当時は人が復活するわけがないとか十字架にかけられた罪人が救い主であるわけがない
とか、そんな冷笑を浴びていたのでしょうね
そういった軽蔑に対してはっきりとこの「愚かな」福音を信じることを誇りとする、という宣言なのでしょう

さて2章ですが、律法を誇りながら律法に違反するユダヤ人に対しての批判を展開した章だと思いました
律法を与えられているから義となるのではなく、律法を行うことが義なのだから
律法を与えられたユダヤ人であろうと、与えられていない異邦人であろうと
行いに応じて等しく罪は裁かれ、行いに応じて等しく義とされる、ということだと思います
もちろんここでは理屈上、律法を行うことが義であると展開していますが
それを完璧に行えないのが人間ですから、この後いわゆる新興義認論へと
パウロは論を展開していくことになると思います

ここでの質問は16節の「わたしの福音によれば」という箇所です
ここはクリスチャン共通の福音であれば、「わたしの」ということばは必要ないように感じます
ここで敢えて「わたしの」と付け加えているのは、パウロが自分の宣教をある程度独自なものと
考えていたからなのでしょうか?