>>716
やはり教会的にも「わたしの」という形容はまずいと思ってたわけですね
原語的には「わたしの福音に従って」となれば、さらにパウロの我が強調されてしまいますね

さて休日の割当ですが、ちょうどイエスの水上歩行の箇所ですね

マタイではマルコにないペテロとイエスのやり取りが加えられています
これはマタイ31節にあるように弟子の信仰の薄さを描くために挿入されたエピソードのように思われます
しかしまたしてもペテロですねw
また33節にあるように弟子の口からイエスを神の子であると発言させています
このあたりはマルコに比してマタイではよりイエスの神格化が進んでいることを感じさせます

水上歩行といえば、わたしの知人に物理を専門とする人がいるのですが
この人が常々、人間本気で心から信じれば水上歩行もできるのではないか、と語っていたのを
思い出します
わたしはどちらかというと、この意見に否定的だったのですが、その人はおそらく未知の精神的な力が
物理現象にも介入できると考えていたのだと思います
量子力学には解釈によってそう思わせる部分もあるので、そんなことを考えていたのだと思います

どちらにしても古代においては自然現象も現代ほど法則に従って振る舞っているという観念が
強くはなかったので、自然現象をも自由に統御できるイエスの奇跡というのは
それなりに受け入れられたのだろうと思いました