>>723
自然現象を自由に統御できるのは自然を作り出した創造主である神のみということで
マタイでも神ということに重きをおいて語られているということですね

さてローマ3章です

前章でユダヤ人でも異邦人でも神の元では等しいということを強調していたので
この章では、まずユダヤ人の優れている点を取り上げようとします
2節で「それは、いろいろの点で数多くある。」と言っておきながら
結局9節でわたしたち(ユダヤ人)にまさったところなど絶対にないと言ってます

そこから話は義人などひとりもいないのだから、人が義とされるのは、律法による行いではなく
ただイエス・キリストのあがないによるのであって、人はそのイエス・キリストを信じることによって
義とされるのだ、という例の信仰義認論へと移っていきます

ここでの質問は、直接的にパウロの文言についてではないのですが、それに関連するものです
25-26節にあるように、パウロ的には神は今までに犯された罪は忍耐を持って見逃してきたが
それは今のときに神の義を示すためだと考えています
そうするとキリストのあがないを与えられて以降の人は信仰によって義とされる道が開かれますが
キリスト以前の人、特に神(ヤハウェ)を知らなかった異邦人には信仰によって義とされる道は
存在しなかったことになります(今までの罪は見逃されてきただけであって義とされるわけでは
ありません)
とすると、これらの人々は復活のときにすべて義とされる道、すなわち救いが閉ざされるということに
なってしまいそうです
なぜなら「義人はいない、ひとりもいない」のですから

このあたりはパウロ的にはどのように処理しているのでしょうか?
神を信仰していたユダヤ教徒はまだしも
キリスト以前の異邦人は端的に言って、全滅ってことでしょうか?