>>726
一応ユダヤ人の優れているところを挙げようとしたけども
結局神の言を授けられたことしか挙げられなかったということですね
パウロ的にはユダヤ人に配慮しつつ、ユダヤ人と異邦人の区別なく救われるという福音を説くのに
腐心したのだと思います

> これからは、十字架の贖いを信ずると義とされるようにルールチェンジされたわけです

これは分かるのですが、疑問は「これまで」のことです
ちょうどイエス以後に生きる人が信仰によって義とされるかされないか判別されるように
イエス以前の人たちも同様の判別基準に従うことになるはずなのに、イエス以前の異邦人は
そもそもイエスを知りませんから、十字架の贖いを信じる信じないもないことになります
もちろん神(ヤハウェ)も信じていませんから、信仰を基準に裁かれるとしたら
イエス以前の異邦人は理屈上、全滅となるはずです
パウロはこれをどう考えたのか、というのが分かりません
考えられるとしたらローマ1章20節にあったように、異邦人にもいわゆる「一般啓示」という形で
神は示されているのだから、それを信じていれば義とされる、というロジックですが
この一般啓示そのものがわたしには屁理屈だとしか思えません
なぜならば民族によって自然や良心の由来に対する説明は異なり
必ずしも唯一の神には帰着しないからです

さて4章ですが、ここではアブラハムを取り上げて、ユダヤ人の肉による祖であるアブラハムも
行いではなく信仰によって義とされたのだから、割礼を受けたものだけが義とされるのではなく
割礼者も無割礼者も同様に信仰によって義とされるのだ、という内容で
前章のテーマが反復されているようです

この章に関する質問は5節です
「不信心な者を義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる」というのは、どういうことでしょうか?
律法に沿った行いができない者でも義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる、なら分かるのですが
これはこれまで不信心で罪を犯してきた人であっても、そんな人でさえ信仰によって義としてくれる神
を信じる人は義とされる、くらいの意味でしょうか?