>>728
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はローマ第五章です

人は肉と霊が結合し人格主体の魂となるわけですが、死ぬのは肉のみで
一旦、魂となったら、肉の死後も魂は死後の世界でとどまるわけです。
で、最後の審判を待っているわけです。2000年前に十字架の贖いによって
ルール変更があったことは死後の世界で魂として待機している人たちもご承知
なのです。主イエースースはわざわざ死んで、黄泉の国に行かれたという設定と
なってますから。なので生きている我々と同じく信ずるか信じないか、人格主体
である魂は選択を迫られるという話では無いでしょうか。

さて五節は、パウロスの詭弁なので、意味不明になっている箇所です。
パウロスの論旨は単に
前節で「働く人」には、働きによって報酬がある。
五節では、「働かない人」も神によって賃金が支払われますよ。
です。
1.五節の「働きはなくても」は、前節の働く人に否定をつけただけの同じ単語
なのですが、位相が違います。前節は単に労働者ですが、5節はユダヤ教では
「律法を実践しない人」という意味になるのでず、パウロスはこの意味で使っています。
「不信心な者」は、つまり「罪人」の言い換えです。

「働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである」
を変換すると
「律法を実践しない、罪人」を義とする神を信ずる者は、その信仰が義とされる
です。

「律法に沿った行いができない者でも義とするかたを信じる人はその信仰が義とされる」
と素直に言えばよいのに、労働者の比喩を出したので、論理がこんがらがって
意味不明になった箇所ですね 困った人です。