>>729
パウロがそういったロジックを持っていたかどうかは別として
なるほど、そういうロジックは成り立ちそうですね
イエスが黄泉の国に行ってそこで福音を説いていれば
イエス以降の人間と条件は同じになりますからね

5節に関してはやはり意味をなさないということなのですね
「不信心な者」を「罪人」と言ってくれれば誤解を生じる恐れもなかったでしょうにね

さて5章ですが、ここはアダムとイエスを対照させて、罪から死に至る運命が
恵みから永遠の命へと転換していったことを述べた章ですね
19節はそれを端的に表した文章だと思います

6節でも「不信心な者」と出てきますが、これも8節で罪人に言い換えられていますね
この章はイエス・キリストを歴史の転換点と捉える視座から語られた、神学的に非常に重要な章だと
思いますが、同時に同語反復的に同じことを語っているため、やや冗長な印象を与える章に
なっているようにも感じます

ここでの質問は14節の「このアダムは、来るべき者の型である」という箇所です
前文を受けて「この」アダムと言っているので、このアダムは創世記のアダムだと読めるのですが
来るべき者の型とはまさにイエス・キリストだと考えられます
つまり神学的に言う「第二のアダム」だと考えられます
「このアダム」とは創世記のアダムなのか、第二のアダム(イエス・キリスト)なのか、どちらなのでしょうか?