>>733
なるほど、「このアダム」は創世記のアダムで、来るべき者はアダムの子孫という解釈ですね
そしてアダムは子孫が罪を継承したという点で子孫のプロトタイプとであるという意味で「型」
と言われている、ということですね

わたしは「来るべき者の型」をイエス・キリストと解釈していました
で、英訳で調べてみたら、どうやら「型」ではなく、「来るべき者」がイエス・キリストで
「型」というのは、アダムがイエス・キリストのプロトタイプになったという意味で「型」だという解釈のようです
アダムが罪人という意味でその後の子孫のプロトタイプになったように
イエスも恵みという意味でその後の人類のプロトタイプになる、という形式上の類似性から
アダムはイエスの型(プロトタイプ)と表現されているようです
つまりアダムもイエスもその後の人類のプロトタイプであるがゆえに
アダムのプロトタイプという特徴が、まさにイエスのプロトタイプとなっている、という感じのようです
たしかにこの解釈であれば15節以降にうまくつながっていくように思います

来るべき者は多くの訳が One[one] who was coming[to come] のように訳し
意訳のCEVは、はっきりと In some way Adam is like Christ who came later. のように訳しています
来るべき者がイエス・キリストと解釈されているのは、おそらくそれが単数で示されているからだと思います

さてローマ6章です

ここは非常に明快な論旨になっているように思いました
イエスの十字架と復活を信じる(にあずかる)我々は、イエス同様、罪に対して死に、神に対して生きる、
罪の報酬は死であったのだから、罪から解放され神に生きる者は永遠の命を得る、という論旨だと思います

ここでの質問は枝葉末節に属するような質問なのですが
19節の「わたしは人間的な言い方をするが」という「枕詞」がなぜ置かれているのかがよく分かりません
「あなたがたの肉の弱さゆえ」と書いてあるところから、いくら罪に死に神に対して生きているとはいえ
いまだ肉を持つ身(人間的)であるために罪を犯すのだから
きよくあるよう心がけなければならない、という感じで
肉の弱さをもつ人間であるということに目を向けさせて戒めるためなのでしょうか?