>>740
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句はマタイ16:13-20です。

四節までが難解なのは、パウロスは
第一に生粋のユダヤ主義者でとりわけ熱心なパリサイ人であったので
パウロスにとっては律法は絶対なのです。
でもパウロスがキリスト教に転向した後のパウロス神学では論理的には
律法に死を宣告し、信仰による救いを説くのですが、いかんせん
「律法の死」について根源的な抵抗がパウロス自身にあり、パウロスの論理が
迷走するのです。それでわかりにくいのです。

2,3節では、律法によって支配している者(女を支配している男)の死がテーマと
なっていますが、四節では論理がすり替わり、支配されている者が死ぬことになります。
つまりキリスト者がキリストの十字架の贖いの利益を受けることで、
キリスト者自身が、律法に対して死んでいるという話にすり替わっています。
論理的に2,3節を受けるならば、「キリスト者にとって、キリスト者を支配していた
律法が死んだ」と言うべき箇所が、逆転しているわけです。パウロスがよくやる逆転の詭弁です。

さてご質問ですが、日本の法律でも配偶者が死んだら、別の人と結婚できるのでは
ないでしょうか。古代ユダヤでもそうであったのでしょう。

15-24節が一人称単数で語られるパウロスの告白の個所です。
24節の「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」がパウロスの本音ですね
律法を守るべきなのに、罪を犯してしまう自分というみじめさですね

最低人格なのに、最高神学をパウロスが語られるのは、このみじめさの自覚が
ある人だからですね。