>>759
申命記からの引用だったんですね
わたしは単純に救いにおいて誰が救われ、誰が救われないかと言うなかれ、ということかと思ってました
申命記の文脈では律法のことばは天だの海の彼方だの手の届かないところにあるわけではなく
あなたの口にあり、心にあるのだから、簡単に行えるではないか、という意味ですね
これはパウロの言う信仰義認とは真逆になってしまうので、意味の分からない文章になってたんですね
さらに問題の「死人の中から引き上げる」は前節に合わせているだけで意味がないということですね

さて11章ですが、ここはちょっとおもしろいロジックになってますね
イスラエルが頑なにされたのはイスラエルが倒れるためではなく、彼らの罪過によって
異邦人に救いが及び、さらにそれによってイスラエルが奮起するためである、と

中盤からはイスラエルをオリーブの根に、異邦人を接ぎ木される枝に喩えています
そして異邦人に対して枝を誇ってはならない、枝は根によって支えられているのだから、と展開します
元木の枝が切り去られたように異邦人であるあなた方という接ぎ木された枝も高ぶれば切り去られる
と忠告しています

30節以降がこの章の総括であるように思いました
かつて異邦人は不従順であったがイスラエルの不従順によって憐れみを受けたように
いま不従順であるイスラエルも異邦人の受けた憐れみによって憐れみを受ける、
このように神はすべての人を憐れむためにすべての人を不従順にしたのである、
なんと神の知恵は深いことか!

う~ん、どうしてもこじつけに思えてしまいます
歴史的な事実(異邦人伝道・洗礼、ユダヤ人によるイエス・クリスチャンへの非難・迫害)を
神学的に力技で意味づけして、イスラエルを擁護しているように思えてしまいます

ただ歴史を隔てて聖書を読む我々と違って、実際に異邦人伝道の只中にいたパウロには
このような神学的な実感があったのかもしれません