>>897
権威付けのためのイエスの系譜や誕生譚を語るマタイやルカ、イエスの神学的存在論を語るヨハネ
と異なり、マルコの福音書冒頭はいきなり洗礼者ヨハネから始まります

洗礼者ヨハネがどのような存在であったか、イエスとはどのような関係にあったか、ということも
重要なテーマですが、ともかくもマルコは他の福音記者と同様、ヨハネによるイエスの洗礼という
エピソードを綴ることからイエスの物語を初めます

そのあと、サタンの試みについては簡単に言及するに留め
ガリラヤでの宣教、弟子の獲得、癒やしの奇跡等をこれまた簡潔に記していきます

マルコに特徴的なのは、24-25節、43-44節に見られるように、「メシアの秘密」です
このメシアの秘密を事実とみなした場合は、当時ユダヤ人の間で流布していた政治的メシア像と
イエスが自己規定していた宗教的メシア像(苦難の僕)との乖離がメシアの秘密の理由であると推測されます
メシアであることが人々に知られると、イエスは受難、贖罪という苦難の僕としてのメシアの業を
政治的メシアを期待する民衆に阻まれてしまうため、自身がメシアであることを秘密にせよと言ったのだ、
というわけです

これに対し、自身をメシアと認識していなかったイエス(あるいはメシア認識の書かれていない
原資料)と、イエスをメシアとする教会教義の乖離を埋めるため、マルコが創作したイエスのことばが
メシアの秘密である、というリベラルな考え方があります

先生はどちらかというと後者の考えだと思うのですが
このメシアの秘密に関してはどのようにお考えですか?

私はこれは確定するのが難しい問題だと思います
これまでも何度か言ってますが、イエスに関する史実を知るための史料が
宣教の書である福音書にほぼ限られてしまうため、史実と創作(教義的構成)を峻別することが
極めて困難だと思うからです

それを承知の上で言えば、私はイエスにメシア意識はあったと思っていますが
メシアの秘密の史実性はやや疑わしいのではないかと思っています