>>902
「まだ晒していない」→「まだ使用に適していない」「使用する前の新しい布」という感じで
意訳してしまったのでしょうね
「新しいぶどう酒」も「まだ飲むには適していない」という感じですかね
すでに完成してしまった律法主義的な古い教えに無理やりイエスの「これからの」教えを
接合してしまえば古い教えを破ってしまうことになるだろう、っていう意味合いなのですね

28節の「人の子」はイエスだと思っていたので、つながりがよく分かりませんでしたが
そのままの意味、つまり人間と取れば、すんなり27節につながりますね

さて3章ですが、冒頭はシナゴーグでの安息日の癒やしで、非常に印象的なエピソードです
2章27章の「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」という
イエスの教えにそのままつながってきます
それはそのままパリサイ人らのイエス殺害計画を惹起して、イエスはそこから逃れ
ついてきた群衆に囲まれます

11-12節もまた「メシアの秘密」の箇所ですが、そのあとすぐに12弟子の選別が続きます

この章で目を引くのは、21節です
身内の者たちがイエスを気が狂ったと認識している箇所です
ここでは身内の者たちはイエスを直接見てそう思ったのではなく
イエスの噂を聞いてそう思ったわけですから、そう思わせるほどにイエスが
周囲で話題に登るほどの存在になっていたということだと思います

イエスの奇跡譚は信じがたいものが多いのも事実ですが、周囲が騒ぐほどになったということは
少なくとも奇跡と見えるほどの癒やしの実績はあったのだろうと思います

ともかくも31節以降はイエスのことを気が狂っていると思った身内の者がイエスを尋ねますが
最後の二節は非常に印象的な言葉になってます
一聴、冷たい言葉に聞こえますが、「神のみ心を行う」ということがイエスにとっては
何にも勝る徳であったことがよくわかります