>>937
なるほど、「相手を試すためにしるしを証拠として求めるような時代・世代には
しるしは与えられない」と考えれば、実際に当時の時代や世代ということよりも
そういった人たちという意味合いになって、ヨハネと矛盾しないかもしれませんね

先生が示された「しるし」にはちょっと興味がありますが
要はしるしを神を試すために使用するのはダメってことですね

パンくずのかごの数に関しては、数そのものに意味があるのではなく
皆が満ち足りなのだからそれを心配するのではなく
パリサイ人やヘロデのパン種についてイエスが言ったことに着目せよ、ってことですね

さて9章ですが、イエスのtransfiguration(変身)の描写に続いて、子どもに憑いた悪霊の追い出しの
描写がありますが、その間にイエスの受難予言や弟子たちの傲慢さを示すエピソードが挟まれています

ここで気になったのは、まず13節の「エリヤはすでにきた」というところですが、これは
洗礼者ヨハネのことを言っていると考えて良いのでしょうか?

悪霊に憑かれた子は症状的に癲癇だと思われますが、癲癇の原因がまだ分からなかった古代では
これを悪霊に憑かれた症状と考えるのは、ある意味当然だったのかもしれませんね
それはともかく気になったのは29節の「このたぐいは、祈りによらなかれば追い出せない」という部分です
今までの悪霊追い出しには特に祈りが要件として入っていなかったと思いますが
ここではなぜ祈りが要件となっているのでしょうか?

最後に43節から始まる地獄の消えない火の話を受ける形で、49節にも火が出てきますが
ここでの火は地獄の火とは無関係なのでしょうか?
それと「火で塩づける」とはどういう意味なのでしょうか?