>>943
そういえば先生はヨハネ福音書=グノーシス文書説でしたね
わたしはヨハネ福音書はグノーシス派に対する対抗意識のもとに書かれた福音書ではないかと
推測しますが、実際のところ詳細に調べたわけでもないので、ほとんど憶測の域を出ません
ヨハネ福音書がどのような成立過程を経たかは別にして、ともかくもキリスト教神学にとっては
決定的な礎になった福音書ですね(特に1章冒頭)

わたしも18節のイエスのセリフは史実に近いものだと思います
というのはイエスをメシアとして描き出そうとするマルコにとって
このイエスのセリフは必ずしもそれに沿ったものではないからです
一般に著者の神学的意図に反する(沿わない)記述は著者の神学によって改変されたものではない
可能性が高いわけですから、ここも史実性が高いのではないかと考えています

とするとこのセリフを含む金持ちの青年のエピソードもそれなりの史実性があるのではと思います
イエスの他の教えとも整合性がありますしね

さて休日の箇所ですが、バルナバとパウロの宣教を記述した箇所ですね
この前読んだときには気づきませんでしたが、2節のバルナバとパウロを聖霊のために聖別するとは
いったいどういうことなのでしょうか?
バルナバもパウロもこの時点ではすでに聖霊を受けてクリスチャンになっているという意味では
すでに聖別されていると思うのですが、さらにここで聖別するというのがどういうことなのか分かりません
特段の意味はなく、単に一種の験担ぎみたいなものなんでしょうか?