>>953
実際に「未熟なイチジクの家」という意味の地名なんですね
信仰の実を結ばない人の暗喩として、この地名に引っ掛けて
こういったエピソードを挿れたのかもしれませんね

イエスの側から見れば「宮清め」だし、ユダヤ教徒の側から見れば「宮荒らし」になりますね
同じ行為であっても見る人によって180度見方がことなってしまいます

さて12章ですが、ここは重要なイエスの譬えや教えがぎっしり詰まっていますね

まずはぶどう園の譬えで、これはまさにイエスの受難を暗示しているように思います

次に有名な「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」という切り返しですが
ここはうまく世俗の権力と宗教的権威を衝突させない教えになっていますね

さらにサドカイ人が持ちかけた「妻のパラドクス」に対しても復活後は今のような性のある存在ではなく
天使のような存在になる、という答えを提示してパラドクスを回避しています
ここは実際にイエスは復活後の存在を性なき存在と考えていたのでしょうか?
キリスト教では復活後もこの世での自我(個性)を引き継ぐと考えているように思います
前世の記憶が消されて新たに転生するといった輪廻的な概念がないからです
もし復活後もその人固有の自我・個性を引き継ぐとしたら
その人固有の自我と性は密接不可分だと思われるので
このような中性的な存在はかなり無理があるように思われます

そのあとは最も大切な律法、すなわち神への愛と隣人愛が語られ
さらには律法学者を痛烈に批判し、最後は貧しいやもめの話し、つまりお賽銭(献金)は
絶対額ではなく、各人の資産や財産に比した相対額で見るべきことが語られます
この相対額の重視は、イエスが外面的な行為よりも、その動機や心の持ち方を重視していたことの
現れであると思います