>>974
沈黙の理由は神を信頼しているため、すべてを委ねているからだ、というお考えですね
たしかに受難をも辞さないくらいの信仰心ですから、弁明をする必要など感じなかったのかも
しれませんね

十字架上のイエスに対する罵倒、嘲笑は、受難物語の口承者たちが受難の劇的描写のために
肉付けしたものである、ということなんですね
イエスとともに磔刑された罪人も、他人を罵るような余裕はなかっただろう、と

41節で触れられている女性たちは最後までイエスに付き従ったのに対し
弟子たちはすべて逃げました
マルコはそれを書き留めたかったのですね

さて休日分の使徒14:8-28はバルナバとパウロの伝道の様子を書いた箇所ですね

バルナバとパウロがギリシャの神々に比されていることについては以前もお聞きしました
ふたりはこれに激怒し、神はすべてを想像した神ひとりだけで、自分たちはみんなと同じ
人間にすぎないと説きます
ここは神々が人間の延長であるギリシャ的宗教観と神と人間の間に創造主と被造物という明確な
線引があるヘブライ的宗教観の違いがよく表された箇所だと思います

17節はいわゆる一般啓示で、パウロの手紙でもこのような考えが示されていました
わたしは日本人ですから雨や実りといった自然の恵みはまさに自然そのものの恵みと捉えるので
そのような恵みから帰納して唯一神へと至るような発想はありません
ですからパウロが言うようにこういった自然の恵みや人間の良心が神の証という論理は
まったく説得力があるとは思いませんが、自然を神の被造物と考えるユダヤ人の世界観では
このような恵みはまさに自然に表された神の証と映るのでしょうね
証明としては同語反復、トートロジーでしかありませんが、ユダヤキリスト教の世界観の根幹が
このようなものですから、彼らにとっては日が東から昇るのと同じくらい自然なことだったのでしょうね