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宗教板避難所2

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1臨時で名無しです
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2022/07/13(水) 17:34:34.75ID:hTLkqwwt
規制で入れない方はこちらへ
2臨時で名無しです🐙
垢版 |
2022/07/16(土) 02:30:23.71ID:GvvWrOyp
おかしい
2022/07/24(日) 19:46:24.96ID:mXZhVsCg
宗教は一部NGがあるんか?
4atheist
垢版 |
2022/07/25(月) 01:41:35.94ID:LiSHS06Z
前スレ1000 ハゲ先生

やっぱり義人ヤコブなんですね
先生の見立てでは義人ヤコブは無割礼を認めるはずはないので
ルカ、ないしはパウロの作り話だろう、と

一応割礼をしなくてもキリスト教徒として認めはするが、自分たちのような真正の割礼者と
同じではない、と考えていたのだろうというご意見ですね

わたしはこの件についてなんらかの推測ができるほど知っているわけではないので
どちらとも言えませんが、結果としては積極的であろうと消極的であろうと
少なくとも形式的には無割礼を事実上許容した、という感じですかね
2022/07/25(月) 06:11:08.95ID:nD72LDbi
>>4
atheistくん、おはようございます。本日のの聖句は伝道の書9-10章です

ただこの認識のスレ違いがパウロの逮捕を生みましたけどね
エルサレムでパウロが逮捕されたのは
エルサレム教会、つまり義人ヤコブの通報によるものだと私は考えています。
6atheist
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2022/07/26(火) 00:52:32.87ID:m8re8wm5
>>5
ということは、先生の考えではパウロとヤコブの間には最後まで確執があった、ということですね

さて9章ですが、冒頭3節まではこれまでの流れの通り、諸行無常が語られ
正しい人にも正しくない人にも、みな同様の結果(悪、死)が臨むと言います
ところが4節で、それでも生きている者には望みがあると語ります
少なくとも生きているものは死ぬべきことを知っているのに、死者は何事も知らず
何の報いも受けないからです(5節)

ここからこれまでも何度か語られたように、生きている間に神が賜ったものを楽しめという筆者の
「結論」が語られます(7節、9節)

13節以降は筆者が見たという知恵のある人の例が語られますが
ここはやや唐突な感じがします

10章はまた箴言的な趣きがありますが、知者と愚者を対比的に記述していています
ちょっと気になったのは2節の右と左です
一般的に右は肯定的に、左は否定的に捉える言語はけっこうあるようで
英語もそのひとつです(例えばadroitは器用なという意味ですが元は右という意味、
sinisterは不吉な等の意味ですが、元々左という意味、など)
ヘブライ語もそうなんでしょうか?

あと16-17節の意味がいまいち分かりません
朝からごちそうを食べるような子どものような節操のない君主を持つ国はわざわいで
力を得るために適切なときにごちそうを食べるような自主の子(自律的な人?)のような君主を持つ
国はさいわい、みたいな感じでしょうか?
2022/07/26(火) 06:05:12.31ID:DBiw+rHR
>>6
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は伝道の書11-12章です

9章では「死と共にすべてが消え去り、後には何も残されない」と語られる。
これは古いユダヤの考え方であり、その後の知恵文学や後期の預言書では
死後の命や復活という考え方が生まれるそうです。

右と左について出エジプトに
9:20そしてあなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、
その子たちの右の耳たぶとにつけ、また彼らの右の手の親指と、右の足の親指とにつけ、
その残りの血を祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。
29:22あなたはまた、その雄羊の脂肪、脂尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、
二つの腎臓、その上の脂肪、および右のももを取らなければならない。これは任職の雄羊である。
とあるように、なぜか犠牲獣を聖別する時に「右」が指定されています。

詩編では
16:8わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
73:23けれどもわたしは常にあなたと共にあり、
あなたはわたしの右の手を保たれる。
110:5主はあなたの右におられて、
その怒りの日に王たちを打ち破られる。
と「右」は神の側です

マタイともなるともっとどぎつくなります
25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。
25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために
用意されている永遠の火にはいってしまえ。
2022/07/26(火) 06:05:45.07ID:DBiw+rHR
>>6

16-17節の対比は、王が若くて力が無く高官らが飽食を楽しんで
怠けているような国は他国に滅ぼされたり、国の運営がうまくいかない
王のコントロールが効いていないということでしょう。

具体的には、五歳で王となったプトレマイオス5世説。
自主の子を貴族の出と訳し、年若いを奴隷出身と解釈して
アレクサンドロス・バラスだとする説があります
9atheist
垢版 |
2022/07/27(水) 01:50:25.64ID:fraz7Ws4
>>7
復活思想は第二神殿期にユダヤ教のなかに入ってきた、と思っていましたが
知恵文学のなかにもそれを示すような部分があるんですね
コヘレトは「死んだらおしまい」という伝統的なユダヤ教の死生観に沿って書かれている、ってことですね
コヘレトをキリスト教的観点から解説したコメンタリーを読んだことがありますが
さすがにちょっと無理やりすぎるこじつけであったように感じたのは、死生観が大きく異る立場による
解説だったからなのかもしれません

右と左については、ヘブライ語聖書でも聖なる側(正しい、優れた側)が右という発想が各所に
見られるんですね

>>8
16-17節も背景に具体的な王の存在がある可能性があるんですね
この文言を字面だけで読む側には非常に伝わりにくい内容だと思いました

さてコヘレトもいよいよ最後です
両章とも短いですが、やはり表現が極めてわかりにくいです

11章は4節までが何を言っているのかよく分かりません
とりあえず8-10節がそのまま結論のようなもので、すべては空であるから
若いときに楽しめ、と説きますが、ちゃんと但し書きとして神の裁きを忘れるなと注意を喚起しています

12章はおそらく前半が死に至る時のことなのかなあとは思いますが、これもまたよく分かりません
ただ印象的なのは7節で、人間もまたちりに土に帰り、その霊は神へと帰る、と言っているように
読める部分です
特に霊がこれを授けた神に帰る、というのは、キリスト教ではそれこそ天国に行く等々の解釈
になるんでしょうが、ここはそのまま生きていたときにもっていた自我を失い無に帰していく
といった内容だと思いました

結局コヘレトの結論は、人間は神の被造物であって生が終われば無に帰すのだから
与えられた生を神の賜物として楽しみ、人間が神の手のうちにあることをしっかり自覚し
神を恐れ、神の命に従え、ということだと感じました
2022/07/27(水) 05:12:23.78ID:dcqahQG4
>>9
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリント書1章です

11:1は3説あります。こじつけ解釈なので諸説あるわけです
A・・・海運業に投資せよ
B・・・水気の多い土地に種を蒔くと豊作になる
C・・・寛大な施しは後日その報いを受ける
11:2
善をひとりだけではなく、7人8人と大勢に施すと
後日災いが起こった時、彼らがあなたを助けるという意味

11:3
自然現象を人間が予測できない
11:4
不測の事態を心配ばかりしていると行動できない

6節の結論部分で
だからわからないと言って何もしないのではなくて わからないけれども
朝から夕まで働きなさい 我々にできることをしましょうということですね

12章は1-7節が「最後の日々」
8-14節が「あとがき」です。

7節。
キリスト教では、神の霊が人の肉と結合すると、人格主体の魂となり
失く隊の死後も魂はありつつげるのですが、
11atheist
垢版 |
2022/07/28(木) 00:35:42.28ID:s1Mqg6AZ
>>10
やはり11章冒頭部は解釈の分かれる箇所(よく分からない箇所)なんですね
こういった箇所は当時の人達にとっては具体的な社会的文脈があり
想像しやすかったのかもしれませんが、そういった社会的文脈をもたない現代の我々には
かなり解釈が難しくなるところと言っていいんでしょうね

12章7節については先生の書き込みが途中で切れているので、分かりませんが
内容からして、キリスト教では神の「息吹」で霊肉が結合すると魂になり
それは肉体の死後も存続することになっているのに対し、コヘレトの時代では
肉が朽ちると霊の部分は神へと帰還する(魂という実体を保たない)ということなんでしょうかね

さて今日からはまたパウロで、1コリですね

10節までが前置き(冒頭の挨拶)のようになっていて、11節からコリントの教会で起こっている
具体的な問題についてのパウロの回答になってますね

12節から察すると、コリント教会のひとたちの間ではパウロ派、ペテロ派といった派閥のようなものが
形成されつつあり、それが分裂を引き起こしつつあったようです
これに対するパウロの回答は13節にあるように「キリストにおいてひとつ」ということなのでしょう

そのあとのパウロの話のなかで目を引くのは、22-23節に典型的に示されているように
クリスチャンはユダヤ人の求めるしるし(奇跡)やギリシャ人の求める知恵(哲学)ではなく
十字架に付けられたキリストを述べ伝えているのだ、という箇所です

パウロの立論では、人間が誇ることのないように
神は愚かな者、弱き者、身分の低い者を神・キリストを述べ伝える者に選んだということです
ここは実際にはイエスのメッセージ(キリスト教のメッセージ)が社会的弱者に強く訴えかけるもので
あったがゆえに、そういった人たちが多かったのだろうと思います

今回の質問は1コリの最初ということで基本的なことについての確認です
コリント教会は、もちろんギリシャにあるのでギリシャ人が大半だとは思うのですが
実際は離散ユダヤ人もそれなりにいたのでしょうか?規模や男女比なども、もし分かるのであれば、教えてください
2022/07/28(木) 05:51:29.20ID:zGWQ/xxC
>>11
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ2章です。

失礼しました。尻切れトンボですね ご想像どおりです。
死んだら、霊は神に帰還するというインドと同類の感覚だったようです。

パウロス先生はコリントス教会の土台を据えたと思い込んでいるのですが
教会員からそう思われなかったということですね
そもそも色んな伝道者が来ていましたし、そちらの方が人気が高かったのです。

コリントスはホメロスが「富裕なるコリントス」、ヘロドトスが「富めるコリントス」と語るほど
裕福な商業都市で、交通の要地という地の利で発展していました。
2022/07/28(木) 06:13:43.86ID:zGWQ/xxC
自由人が20万人、奴隷が40万人ほどいました。
現代聖書注解のR.B.ヘイズの推測では、
教会員は150-200人ほどです。
14atheist
垢版 |
2022/07/28(木) 23:19:37.17ID:s1Mqg6AZ
>>12-13
これは前にも先生が言ってましたね
パウロ的には自分がコリント教会の礎を据えたという意識だったが
実際には他の様々な伝道者がいて、パウロを含めた伝道者間で
伝えていることが若干異なっていた、ということなんですかね

当時のコリントがこれほどの大都市だとは知りませんでした
自由人と奴隷合わせて60万人というのは古代では破格の大きさと言ってもいいのではないでしょうか

教会員数も推定ではありますが、百人を超える規模だとすると
古代ではメガチャーチって言っていいくらいの規模だと思います

たしかにこれだけの規模であれば、多少の派閥化は生じてしまうかもしれませんね

さて1コリ2章ですが、ここでは人間の知恵と神の知恵が大きく対比されて語られています
パウロはもちろん神の知恵の側に立って論を進めていますが、その根拠として
12節にあるように、クリスチャンが受けたものはこの世の霊ではなく神からの霊だと語ります

少し気になったのは11節です
ここで言われる「神の御霊」というのは聖霊のことだと思いますが
前半の「人間の思いは、その内にある人間の霊以外は知らない」という言い方を類比として
語っているところから、この神の御霊も、父とは独立した聖霊という位格というよりも
神(父)の霊そのものであるように受け取れます
もちろんこの時点では三位一体の教義は確立していませんから、パウロ自身も
明確な位格的存在として聖霊を語っているわけではないかもしれませんが
実際のところ、パウロはこの「神の御霊」をどのように捉えていたと考えられますか?

あとはパウロに関してよく引用される2節ですね
福音書を読む我々はイエスが受難に至るまでの宣教で述べ伝えたこと
(例えば山上の垂訓など)をイエスの実質的な教えとして重視していますが
パウロはキリストのことばをすべて無視し、ただただ受難のキリストのみに焦点を当てています
このパウロの姿勢を先生はどのように見られていますか?
2022/07/29(金) 04:45:45.01ID:TVDS3U24
>>14
atheistくん、おはようございます。
本日の聖句は1コリ3章です。

古代の航行技術では荒れるペルポネソス半島の西側が危険だったそうで
エーゲ海とイオニア海のアジアとローマ間の東西貿易をする場合、
ケンクレア港に陸揚げし、レカイオン港まで陸送してまた海で輸送するという手法が
取られたので大繁栄したみたいですね
後オリンピックに次ぐ祭典のイストミア競技会の開催地としても栄えたそうです。2年ごとの祭典です
しかしBC146にローマに攻略されて破壊されBC44までは捨て置かれていたそうです
それがBC44に再建されると、解放奴隷が経済的成功を求めて大量に移住し
活気に満ち溢れていたそうですね。
いわば再建された新興都市だったのでパウロス先生が指摘する性的放縦さもあったようです
2022/07/29(金) 05:04:30.45ID:TVDS3U24
>>14
11節の御霊は、単なるプネウマ、霊です。聖霊とはまた別です。
ここの論旨のポイントは、「知る」にあります。

口語訳は
「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか」と訳しますが
原文に「人の思い」はなく「人のこと」です。
人のことを知っているのは、人のプネウマだけである とまず論じますが
この「知る」は普通の知るである「オイダ」です。
次に「神のこと」を知る「神のプネウマ」の「知る」についてパウロス先生は動詞を変えています。
そして時制も現在から現在完了形にして、
「神のプネウマ以外に(過去から現在まで)誰も認識(ギノースコー)しなかった」と
論議を進めています。

で、この場合のプネウマは精神という意味の霊です。
プネウマは多義的ですが、霊と訳される婆も、ほぼ精神という意味です
霊的というのは精神的というニュアンスなのです
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