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宗教板避難所2

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1臨時で名無しです
垢版 |
2022/07/13(水) 17:34:34.75ID:hTLkqwwt
規制で入れない方はこちらへ
2臨時で名無しです🐙
垢版 |
2022/07/16(土) 02:30:23.71ID:GvvWrOyp
おかしい
2022/07/24(日) 19:46:24.96ID:mXZhVsCg
宗教は一部NGがあるんか?
4atheist
垢版 |
2022/07/25(月) 01:41:35.94ID:LiSHS06Z
前スレ1000 ハゲ先生

やっぱり義人ヤコブなんですね
先生の見立てでは義人ヤコブは無割礼を認めるはずはないので
ルカ、ないしはパウロの作り話だろう、と

一応割礼をしなくてもキリスト教徒として認めはするが、自分たちのような真正の割礼者と
同じではない、と考えていたのだろうというご意見ですね

わたしはこの件についてなんらかの推測ができるほど知っているわけではないので
どちらとも言えませんが、結果としては積極的であろうと消極的であろうと
少なくとも形式的には無割礼を事実上許容した、という感じですかね
2022/07/25(月) 06:11:08.95ID:nD72LDbi
>>4
atheistくん、おはようございます。本日のの聖句は伝道の書9-10章です

ただこの認識のスレ違いがパウロの逮捕を生みましたけどね
エルサレムでパウロが逮捕されたのは
エルサレム教会、つまり義人ヤコブの通報によるものだと私は考えています。
6atheist
垢版 |
2022/07/26(火) 00:52:32.87ID:m8re8wm5
>>5
ということは、先生の考えではパウロとヤコブの間には最後まで確執があった、ということですね

さて9章ですが、冒頭3節まではこれまでの流れの通り、諸行無常が語られ
正しい人にも正しくない人にも、みな同様の結果(悪、死)が臨むと言います
ところが4節で、それでも生きている者には望みがあると語ります
少なくとも生きているものは死ぬべきことを知っているのに、死者は何事も知らず
何の報いも受けないからです(5節)

ここからこれまでも何度か語られたように、生きている間に神が賜ったものを楽しめという筆者の
「結論」が語られます(7節、9節)

13節以降は筆者が見たという知恵のある人の例が語られますが
ここはやや唐突な感じがします

10章はまた箴言的な趣きがありますが、知者と愚者を対比的に記述していています
ちょっと気になったのは2節の右と左です
一般的に右は肯定的に、左は否定的に捉える言語はけっこうあるようで
英語もそのひとつです(例えばadroitは器用なという意味ですが元は右という意味、
sinisterは不吉な等の意味ですが、元々左という意味、など)
ヘブライ語もそうなんでしょうか?

あと16-17節の意味がいまいち分かりません
朝からごちそうを食べるような子どものような節操のない君主を持つ国はわざわいで
力を得るために適切なときにごちそうを食べるような自主の子(自律的な人?)のような君主を持つ
国はさいわい、みたいな感じでしょうか?
2022/07/26(火) 06:05:12.31ID:DBiw+rHR
>>6
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は伝道の書11-12章です

9章では「死と共にすべてが消え去り、後には何も残されない」と語られる。
これは古いユダヤの考え方であり、その後の知恵文学や後期の預言書では
死後の命や復活という考え方が生まれるそうです。

右と左について出エジプトに
9:20そしてあなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、
その子たちの右の耳たぶとにつけ、また彼らの右の手の親指と、右の足の親指とにつけ、
その残りの血を祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。
29:22あなたはまた、その雄羊の脂肪、脂尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、
二つの腎臓、その上の脂肪、および右のももを取らなければならない。これは任職の雄羊である。
とあるように、なぜか犠牲獣を聖別する時に「右」が指定されています。

詩編では
16:8わたしは常に主をわたしの前に置く。
主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。
73:23けれどもわたしは常にあなたと共にあり、
あなたはわたしの右の手を保たれる。
110:5主はあなたの右におられて、
その怒りの日に王たちを打ち破られる。
と「右」は神の側です

マタイともなるともっとどぎつくなります
25:33羊を右に、やぎを左におくであろう。
25:41それから、左にいる人々にも言うであろう、
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために
用意されている永遠の火にはいってしまえ。
2022/07/26(火) 06:05:45.07ID:DBiw+rHR
>>6

16-17節の対比は、王が若くて力が無く高官らが飽食を楽しんで
怠けているような国は他国に滅ぼされたり、国の運営がうまくいかない
王のコントロールが効いていないということでしょう。

具体的には、五歳で王となったプトレマイオス5世説。
自主の子を貴族の出と訳し、年若いを奴隷出身と解釈して
アレクサンドロス・バラスだとする説があります
9atheist
垢版 |
2022/07/27(水) 01:50:25.64ID:fraz7Ws4
>>7
復活思想は第二神殿期にユダヤ教のなかに入ってきた、と思っていましたが
知恵文学のなかにもそれを示すような部分があるんですね
コヘレトは「死んだらおしまい」という伝統的なユダヤ教の死生観に沿って書かれている、ってことですね
コヘレトをキリスト教的観点から解説したコメンタリーを読んだことがありますが
さすがにちょっと無理やりすぎるこじつけであったように感じたのは、死生観が大きく異る立場による
解説だったからなのかもしれません

右と左については、ヘブライ語聖書でも聖なる側(正しい、優れた側)が右という発想が各所に
見られるんですね

>>8
16-17節も背景に具体的な王の存在がある可能性があるんですね
この文言を字面だけで読む側には非常に伝わりにくい内容だと思いました

さてコヘレトもいよいよ最後です
両章とも短いですが、やはり表現が極めてわかりにくいです

11章は4節までが何を言っているのかよく分かりません
とりあえず8-10節がそのまま結論のようなもので、すべては空であるから
若いときに楽しめ、と説きますが、ちゃんと但し書きとして神の裁きを忘れるなと注意を喚起しています

12章はおそらく前半が死に至る時のことなのかなあとは思いますが、これもまたよく分かりません
ただ印象的なのは7節で、人間もまたちりに土に帰り、その霊は神へと帰る、と言っているように
読める部分です
特に霊がこれを授けた神に帰る、というのは、キリスト教ではそれこそ天国に行く等々の解釈
になるんでしょうが、ここはそのまま生きていたときにもっていた自我を失い無に帰していく
といった内容だと思いました

結局コヘレトの結論は、人間は神の被造物であって生が終われば無に帰すのだから
与えられた生を神の賜物として楽しみ、人間が神の手のうちにあることをしっかり自覚し
神を恐れ、神の命に従え、ということだと感じました
2022/07/27(水) 05:12:23.78ID:dcqahQG4
>>9
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリント書1章です

11:1は3説あります。こじつけ解釈なので諸説あるわけです
A・・・海運業に投資せよ
B・・・水気の多い土地に種を蒔くと豊作になる
C・・・寛大な施しは後日その報いを受ける
11:2
善をひとりだけではなく、7人8人と大勢に施すと
後日災いが起こった時、彼らがあなたを助けるという意味

11:3
自然現象を人間が予測できない
11:4
不測の事態を心配ばかりしていると行動できない

6節の結論部分で
だからわからないと言って何もしないのではなくて わからないけれども
朝から夕まで働きなさい 我々にできることをしましょうということですね

12章は1-7節が「最後の日々」
8-14節が「あとがき」です。

7節。
キリスト教では、神の霊が人の肉と結合すると、人格主体の魂となり
失く隊の死後も魂はありつつげるのですが、
11atheist
垢版 |
2022/07/28(木) 00:35:42.28ID:s1Mqg6AZ
>>10
やはり11章冒頭部は解釈の分かれる箇所(よく分からない箇所)なんですね
こういった箇所は当時の人達にとっては具体的な社会的文脈があり
想像しやすかったのかもしれませんが、そういった社会的文脈をもたない現代の我々には
かなり解釈が難しくなるところと言っていいんでしょうね

12章7節については先生の書き込みが途中で切れているので、分かりませんが
内容からして、キリスト教では神の「息吹」で霊肉が結合すると魂になり
それは肉体の死後も存続することになっているのに対し、コヘレトの時代では
肉が朽ちると霊の部分は神へと帰還する(魂という実体を保たない)ということなんでしょうかね

さて今日からはまたパウロで、1コリですね

10節までが前置き(冒頭の挨拶)のようになっていて、11節からコリントの教会で起こっている
具体的な問題についてのパウロの回答になってますね

12節から察すると、コリント教会のひとたちの間ではパウロ派、ペテロ派といった派閥のようなものが
形成されつつあり、それが分裂を引き起こしつつあったようです
これに対するパウロの回答は13節にあるように「キリストにおいてひとつ」ということなのでしょう

そのあとのパウロの話のなかで目を引くのは、22-23節に典型的に示されているように
クリスチャンはユダヤ人の求めるしるし(奇跡)やギリシャ人の求める知恵(哲学)ではなく
十字架に付けられたキリストを述べ伝えているのだ、という箇所です

パウロの立論では、人間が誇ることのないように
神は愚かな者、弱き者、身分の低い者を神・キリストを述べ伝える者に選んだということです
ここは実際にはイエスのメッセージ(キリスト教のメッセージ)が社会的弱者に強く訴えかけるもので
あったがゆえに、そういった人たちが多かったのだろうと思います

今回の質問は1コリの最初ということで基本的なことについての確認です
コリント教会は、もちろんギリシャにあるのでギリシャ人が大半だとは思うのですが
実際は離散ユダヤ人もそれなりにいたのでしょうか?規模や男女比なども、もし分かるのであれば、教えてください
2022/07/28(木) 05:51:29.20ID:zGWQ/xxC
>>11
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ2章です。

失礼しました。尻切れトンボですね ご想像どおりです。
死んだら、霊は神に帰還するというインドと同類の感覚だったようです。

パウロス先生はコリントス教会の土台を据えたと思い込んでいるのですが
教会員からそう思われなかったということですね
そもそも色んな伝道者が来ていましたし、そちらの方が人気が高かったのです。

コリントスはホメロスが「富裕なるコリントス」、ヘロドトスが「富めるコリントス」と語るほど
裕福な商業都市で、交通の要地という地の利で発展していました。
2022/07/28(木) 06:13:43.86ID:zGWQ/xxC
自由人が20万人、奴隷が40万人ほどいました。
現代聖書注解のR.B.ヘイズの推測では、
教会員は150-200人ほどです。
14atheist
垢版 |
2022/07/28(木) 23:19:37.17ID:s1Mqg6AZ
>>12-13
これは前にも先生が言ってましたね
パウロ的には自分がコリント教会の礎を据えたという意識だったが
実際には他の様々な伝道者がいて、パウロを含めた伝道者間で
伝えていることが若干異なっていた、ということなんですかね

当時のコリントがこれほどの大都市だとは知りませんでした
自由人と奴隷合わせて60万人というのは古代では破格の大きさと言ってもいいのではないでしょうか

教会員数も推定ではありますが、百人を超える規模だとすると
古代ではメガチャーチって言っていいくらいの規模だと思います

たしかにこれだけの規模であれば、多少の派閥化は生じてしまうかもしれませんね

さて1コリ2章ですが、ここでは人間の知恵と神の知恵が大きく対比されて語られています
パウロはもちろん神の知恵の側に立って論を進めていますが、その根拠として
12節にあるように、クリスチャンが受けたものはこの世の霊ではなく神からの霊だと語ります

少し気になったのは11節です
ここで言われる「神の御霊」というのは聖霊のことだと思いますが
前半の「人間の思いは、その内にある人間の霊以外は知らない」という言い方を類比として
語っているところから、この神の御霊も、父とは独立した聖霊という位格というよりも
神(父)の霊そのものであるように受け取れます
もちろんこの時点では三位一体の教義は確立していませんから、パウロ自身も
明確な位格的存在として聖霊を語っているわけではないかもしれませんが
実際のところ、パウロはこの「神の御霊」をどのように捉えていたと考えられますか?

あとはパウロに関してよく引用される2節ですね
福音書を読む我々はイエスが受難に至るまでの宣教で述べ伝えたこと
(例えば山上の垂訓など)をイエスの実質的な教えとして重視していますが
パウロはキリストのことばをすべて無視し、ただただ受難のキリストのみに焦点を当てています
このパウロの姿勢を先生はどのように見られていますか?
2022/07/29(金) 04:45:45.01ID:TVDS3U24
>>14
atheistくん、おはようございます。
本日の聖句は1コリ3章です。

古代の航行技術では荒れるペルポネソス半島の西側が危険だったそうで
エーゲ海とイオニア海のアジアとローマ間の東西貿易をする場合、
ケンクレア港に陸揚げし、レカイオン港まで陸送してまた海で輸送するという手法が
取られたので大繁栄したみたいですね
後オリンピックに次ぐ祭典のイストミア競技会の開催地としても栄えたそうです。2年ごとの祭典です
しかしBC146にローマに攻略されて破壊されBC44までは捨て置かれていたそうです
それがBC44に再建されると、解放奴隷が経済的成功を求めて大量に移住し
活気に満ち溢れていたそうですね。
いわば再建された新興都市だったのでパウロス先生が指摘する性的放縦さもあったようです
2022/07/29(金) 05:04:30.45ID:TVDS3U24
>>14
11節の御霊は、単なるプネウマ、霊です。聖霊とはまた別です。
ここの論旨のポイントは、「知る」にあります。

口語訳は
「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか」と訳しますが
原文に「人の思い」はなく「人のこと」です。
人のことを知っているのは、人のプネウマだけである とまず論じますが
この「知る」は普通の知るである「オイダ」です。
次に「神のこと」を知る「神のプネウマ」の「知る」についてパウロス先生は動詞を変えています。
そして時制も現在から現在完了形にして、
「神のプネウマ以外に(過去から現在まで)誰も認識(ギノースコー)しなかった」と
論議を進めています。

で、この場合のプネウマは精神という意味の霊です。
プネウマは多義的ですが、霊と訳される婆も、ほぼ精神という意味です
霊的というのは精神的というニュアンスなのです
2022/07/29(金) 05:09:59.73ID:TVDS3U24
>>14
パウロス先生がコリントス教会で信頼を失ったというか、
相手にされていない原因は、そもそもが2節にあります。

他の伝道者がやってきた際に、パウロス? あいつってイエースースさんに
会ったこと無いでしょ。直弟子ではないですよ
勝手に弟子と言っているだけですよ
だって何も知らないでしょ、イエースースさんのこと。
直弟子の方々からも薫陶を何も受けてないですし
と、まったく無視されていたぽいですね。

私も相手にしなかったと思います

だが現代のキリスト教はパウロス教なので
相手にせざる得ないのです。
最低人格が最高神学を語る奇跡をじっくりと分析しないといけません

神は最低野郎をも用いられるのです
2022/07/29(金) 07:04:58.10ID:OHsMkokB
そうかのこと書いたから規制くらったのかな
2022/07/29(金) 07:05:24.91ID:OHsMkokB
こことvipくらいしか書けない
2022/07/29(金) 07:06:45.59ID:OHsMkokB
言論統制じゃねーか腐れカルトが
21atheist
垢版 |
2022/07/30(土) 01:42:30.73ID:bNFGuS+J
>>16
11節は御霊は聖霊じゃないんですね
原文に従うと「人のことはその内にある人間の霊(精神)以外に誰が知っていようか。
同様に、神のことも神の霊(精神)以外に誰も認識したことはなかった。」って感じになるわけですね
まだこの神の御霊と聖霊の違いがわかりませんが、とりあえずパウロ的には一つの独立した位格
としての聖霊を想定して書いた文ではない、ということですね

>>17
コリントの信徒のなかには、パウロはそもそもイエスの直弟子でもないし、直弟子から薫陶を受けた
わけでもないのだから、あまり信用できない、と思うような人たちがいて、それに対して2節でパウロは
反論したというか、開き直った、みたいな感じになるわけですかね

さて1コリ3章ですが4節までは、信徒たちを霊的に未熟なものとして扱っています
派閥争いをしているようでは肉の人ではないか、と

それに続いてパウロにもアポロにもその他の人にもそれぞれの役割があるだけで
大事なのは霊的に成長させてくださる神のみである、と繰り返します

13節から15節までで語られている「かの日」というのは最後の審判の日のことですか?
かりにそうだとすると、15節がよくわかりません
仕事が焼ける(信仰の実が実らない、不実である等々であることが判明する)とすれば
その人は救われない、となりそうなもんですが、ここでは「火の中をくぐってきた者のようにではあるが、
救われるであろう。」と言っています
ここはどういう意味なんでしょうか?
2022/07/30(土) 09:55:08.42ID:uDvfPDUC
>>21
atheistくん、おはようございます。
本日明日の聖句は使徒15:36-16:40(主に16:12-40)です

成長させるのは神だと言いつつ、10-11節で矛盾した呆れた主張をしています。
土台を据えられるのはパウロス先生だけであると。
こいつアホウさが底なしです。

13節の「かの日」は、終末の審判の日のことです。
で、コリントス教会の教会員たちは、パウロス先生が幻想の中で
キリストにお会いになったというけれども、それは本物のキリスとかと
疑問を投げかけ、証拠を見せろと要求していたのです。
第一テサロニケやニコリで先鋭化する問題ですが
これを伝え聞いて、「審判の日」に私の仕事が検証されると先取りして主張しているのです
つまり証拠を出せないと言う事です
2022/07/30(土) 09:55:29.29ID:uDvfPDUC
仕事が焼けてしまっても、伝道者は宣教に努力したのであるから
称賛は得れないが、とはいえ信仰者として救われるということです。
つまりパウロス大先生の仕事が焼けてしまって失われても、私は救われるという
へんてこな主張ですね。
まあパウロス先生のお仕事は土台として残って大繁栄しているわけですけど
彼の想像以上でしょう
24atheist
垢版 |
2022/07/31(日) 00:11:11.79ID:QfSRLau2
>>22-23
この箇所はパウロに対するコリント教会員たちの疑念を背景に
パウロ自身の仕事(宣教)は最後の審判のときに分かる、と言ってるわけですね
パウロ自身は使徒としての証拠を示すことができないが、その仕事は審判のときには
明らかになるだろう、と

だとすると「その仕事が焼けてしまえば」というのはパウロ自身が自らの仕事に確信的な思いは
もてないが、それでもやることはやったんだから自分は救われるだろう、と表明したということですね

たしかに結果論としては、パウロの仕事は今日につながるキリスト教の礎を築いたようなものに
なりますから、おそらく自身の想像を遥かに超える成果だったと言えるのかもしれませんね

さて休日の箇所はパウロがテモテを連れてマケドニアに行ったときのエピソードですね

パウロが「占いの霊」に憑かれた女奴隷につきまとわれて困り果て、その霊を女から
追い出してしまったことで、その主人たちに捕らえられて獄に繋がれるわけですが
26節のような大地震が起きて、みなの鎖が解けてしまいます
これをきっかけに獄吏とその家族もコロッとイエスを信じることになりますが
ルカはこの手の奇跡をきっかけとしたエピソードが多いような気がします
このへんはどこまでが事実でどこからが脚色なのかわかりませんが
まあパウロの宣教によって信徒が増えていく様を劇的に描きたかったのだと思います

最後は水戸黄門の印籠じゃありませんが、例によってローマ市民権をちらつかせて
長官に謝らせてますw
2022/07/31(日) 09:04:57.71ID:uL9h3Kif
>>24
atheistくん、おはようございます。明日の聖句は1コリ4章です。

16-40節を創作された奇跡物語とする学説が流行ってますが、
この時夢に出たマケドニア人とはルカのことで、ルカが熱心にパウロを
マケドニアに誘った際のエピソードなのでほぼ事実でしょう。

フィリポイは地震の多い町です。
古代の獄舎ですので、ボロです。パウロスを繋いでいた材木が
外れる程度のことはあり得ます。
そして、パウロスは勧誘の名人ですので獄吏一家を勧誘するのも簡単でしょう。
また「占い」で稼いでいた女性は、直訳すると「ビュートンの霊」で神託をし
金を稼いでいたわけですが、それをパウロスがイエースースの名で
神霊追い出しをしてまったのだから、その背後にいる男たちに恨まれて
訴えられると言う事はありえます

最初かにローマ市民であるぞと言えばいいのに、
なぜ鞭打たれて、牢屋に繋がれてから後からパウロス先生は言うのか
私には謎です。マゾなのでしょうか。。。
2022/07/31(日) 09:09:27.01ID:uL9h3Kif
WIKIによると
ピュートーンとは、ギリシア神話に登場する巨大な蛇の怪物である。
長母音を省略してピュトンとも表記される。雄蛇とされるが
『ホメーロス風讃歌』の「アポローン讃歌」によると雌蛇だとされる。
絵画などでは脚のないドラゴンのような姿で表される事もある]。

ピュートーンはガイアの子で、その神託所デルポイを守る番人でもあった
(ウーラノスとガイアの娘のテミスが神託を授けていたが、
元々はピュートーン自身が神託を授けていたとする説もある[
27atheist
垢版 |
2022/08/01(月) 00:45:08.13ID:wD4umQNG
>>25-26
この箇所のエピソードは信憑性があるってことですね
ルカがマケドニアの人とは知りませんでした
悪霊追い出し的なことは今の日本でも信じている人はいるし
やっている人もいるので、一概に古代だから、というわけではないでしょうね
わたしはある種の変性意識や(自己)催眠の類だと思いますが
古代では人間の精神状態に対する科学的な知見が蓄積されていたわけではないので
悪霊というのはそれなりにリアリティをもって受け止められていたのだと思います

パウロはヘレニズム世界に宣教していますから
この「占いの霊」がギリシャ的神話世界を背景に持つのは
ある意味当然なのでしょうね
こういったところにもヘブライズムとヘレニズムの文化接触の例が見て取れるような気がします
2022/08/01(月) 06:49:08.57ID:dQbF21mE
>>27
atheistくん、おはようございます。本日のの聖句は1コリ4章です。

ルカがパウロス先生に出会って、マケドニアに連れて行った際に
起こった出来事ですからね。とてもルカに印象的だったはずです。

現代の神霊追い出しは、ほぼすべて詐欺行為ではないでしょうか
古代にあってはイエースースも弟子たちもやっていましたし
パウロス先生もやっていたわけですね

「ビュートンの霊」の場合は、執拗にパウロス先生につきまとうわけですが
結果、パウロス先生の逆鱗に触れて「ビュートンの霊」を追い出される
そして占いができなくなることで男性たちの支配から逃れたのでしょうから
この女性、男性たちにくいものにされている状態から開放されて喜んでいた
のではないでしょうか。
もう占い行為が嫌になっていた。それでパウロス先生にうるさく付き纏って
追い出させたとか。小説を書けそうです
29atheist
垢版 |
2022/08/02(火) 01:10:24.27ID:jqRXfoFT
>>28
たしかに「悪霊退散!」ってテレビでやってるような人たちは
ほとんどが自覚的に演じているのでしょうね
その意味ではほとんどが詐欺行為と言っていいのかもしれません

占いの霊に憑かれた女の実際は分かりませんが
仮に男性たちの支配から解放されて実は喜んでいたのだとしたら
この話は表面上の筋書きより面白いですね

さて1コリ4章ですが、この章はよくわからないところが多いです

前半は裁くのは神のみであることが強調されています
これはコリント教会で派閥争いが起き、誰彼が本当の使徒だとか偽りの使徒だとか
いった断罪が行われていたことを推測させます

よく分からないのが7節です
「もらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか」とありますが
なんで「もらっていないもののように誇るのか」と言っているのでしょう?
「もらっているもののように誇るのか」なら持てる者の傲慢さということでわかるのですが

8-13節もほとんど自虐的とも思えるような逆説的な言い回しになってます
コリント教会の信徒たちを王になぞらえ、自分たち使徒を死刑囚になぞらえています
理由として14節で「わたしの愛児として諭すため」とありますが、これは
どういう意図なのでしょうか?15節でコリントの信徒を生んだのはパウロであるから
彼らを愛児と譬えているのでしょうが、13節までの内容とのつながりがピンときません

最後に19-20節で「神の国は言葉ではなく、力」だと言ってますが
これはいったいどういうことでしょうか?
2022/08/02(火) 05:04:59.64ID:SoqorgGI
>>29
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ5章です。

裁くのは神のみというパウロス先生の主張は詭弁です。
お前たちは私を使徒では無いと裁くが、お前たちに裁く資格なんて
ないのだから黙ってなさいということだからです。
論点は史実の主イエースースから使徒として任命されてないでしょということですので

7節。原文では「受け取る」です。
2022/08/02(火) 05:23:57.59ID:SoqorgGI
7節。「貰う」は、原文では「受け取る」です。
A我々はすべてを.神から受け取っている。
Bしかし君たちは「神から受け取ってない」かのように誇る
Cつまり最初から自分で持っていたと誇っているという意味です
ややこしい論理です

8-13節て゜パウロスは伝道者を競技場に出る剣闘士に譬えています。
見世物にされ殺されるのを楽しまれる損な役回りがわれわれ伝道者だと
自虐しているわけです。
14節は一転皮肉です。自虐して見せたのはあなたがたをおだてるためではないよ
諭すためなのだと言ってます。

19-20節。 パウロス先生を批判する者たちに対して、「ことば」ではなく「力」を
見せよと言っています。パウロス先生の「力」とは「奇跡」のことです。
俺と「奇跡比べ」をしてお前たちが正しいと証明して見ろと脅しているわけです
ほぼあほうです。中学生並みの喧嘩です。
32atheist
垢版 |
2022/08/02(火) 23:11:39.72ID:jqRXfoFT
>>30-31
パウロのとしてはイエスから直接指名された使徒ということを証明できないので
裁くのは神のみということを強調したってことですね

7節は、「神から受け取っているなら、なぜ神から受け取ったのではなく自力で得た者のように
誇るのか」ということなんですね
たしかにもうちょっと分かりやすい言い方ができそうなもんです

8節以降の自虐と皮肉もまた分かりにくいですね

19-20節は最も違和感を感じたところでした
さすがに「奇跡比べ」を持ちかけていたとは思いも寄りませんでした
そうだとしたら、これはちょっとさすがにどうなんだろうと思います

さて5章ですが、1節を見る限り、パウロはコリント教会のユダヤ人に向けて手紙を書いているようです
さらには「父の妻と一緒に住んでいる者(義理の母と不倫関係にある者?)を
自分をすでに裁いてしまっている、と言っています
これは前章で裁くのは神のみ、と言ったことと矛盾しませんか?

よく分からないのが5節で、なぜ「その霊が救われるように彼をサタンに引き渡した」のでしょうか?
サタンを追い出すとかいうならまだしも、サタンに引き渡したら救われないことになるような気がします

後半は不品行な者を教会から追い出せ、と強い口調で述べてますね
偶像礼拝者や酒に酔う者など、いくつか例を挙げていますが
そういった人たちを諭すのではなく排除せよ、というのはかなり強行な主張であるように思います
もちろんどの程度酷い行いをしている人たちなのか、この文面だけでは分からないので
パウロの判断が無謀だとまでは言い切れませんが
33atheist
垢版 |
2022/08/02(火) 23:14:09.96ID:jqRXfoFT
> 自分をすでに裁いてしまっている、と言っています

→自分「は」すでに裁いてしまっている、の間違いです
2022/08/03(水) 06:01:58.25ID:1JI6DbvN
>>32
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ6章です

パウロス大先生ほど矛盾に満ちた方はおられません。
第一に、ガラティア3:28で、「キリストにあってもはやユダヤ人もギリシャ人もない」と
言っておきながら、ここでは異邦人にさえない不品行が行われていると非難しています。

つまりパウロス大先生のユダヤ優越主義が出てしまっています。
その上で古代社会にあっては、若くして配偶者が死んだ場合、再婚するのですが
再婚相手の女性は若い場合があります。若い女性と再婚するのですから
夫は自然早く死にます。そして若い女性は未亡人となり再婚するわけですが
息子より若いとか同世代ということはままあり、息子と再婚するのはユダヤ律法に抵触しませんし
地中海世界ではままありました。

それを殊更に在り得ない不品行として騒ぎ立てて裁いてしまっているが
パウロス大先生です。自分に対しては裁くな、神が裁くと言いつつ
他人に対しては裁いてしまう矛盾の塊がパウロス大先生なのです。最低人格者です
2022/08/03(水) 06:11:38.15ID:1JI6DbvN
>>32
4-5節
パウロス大先生の救いは、死すべき身体が救われることです。
肉と霊を分けたりはしませんが、
他者に対しては、というか、ここでだけ、霊肉を分けます
つまりご都合主義です。

みんなで集まって、父の妻を娶った不品行者を呪って、肉体が滅ぼされるように
サタンに引き渡したということです。
なぜ呪ったかというと、その罪を肉が滅ぼされるという罰で償って
霊だけは救われるようにというのがパウロス大先生のご見解です。

つまり性的不品行者に対してはアナテマをし、教会の交わりから排除するということです

パウロス大先生は極端な性的保守主義ではあるのですが、度がすぎています
36atheist
垢版 |
2022/08/04(木) 02:21:40.91ID:u5HwzMbr
>>34
現代の感覚で親の世代だから二、三十は年上だろうと考えては駄目ってことですね
古代では結婚は若い年齢でなされるのが通常でしょうし、ある程度裕福な男性であれば
若い女性と結婚(再婚)することも多かったでしょうから、男性側が死んで女性が再婚する際には
「息子世代」となることもありますからね
そういう背景だと息子と再婚というのも現代ほど不謹慎ではなかったのでしょう
単にパウロの道徳観と抵触していただけだったのかもしれません
それでも自分には裁くのは神のみと言いながら、他人に対しては堂々と裁いているのは矛盾ですね

>>35
キリスト教での復活は肉が新しくされたとしても霊肉での復活(あるいは携挙の場合は
死すことなく救われる?)ですから、霊肉を分離して肉をサタンに渡すことで霊を救うという
発想は全く理解できません

このへんはパウロ先生、ちょっと個人的な感情が入りすぎてるのかもしれませんね

さて6章ですが、教会なでの紛争で相互に訴訟を起こすような事態になっていることを
パウロは窘めているようです
それはまあ分かるのですが、それに対する理由付けの部分がちょっとそれでいいんだろうかと
感じます
具体的には、2-3節の「聖徒は世を裁く者」「わたしたちは御使いさえ裁く者」という認識というか、
理由付けの部分です
こういった認識はクリスチャンの傲慢さを生むように感じます
裁くのは神のみ、と言ったんだから、それで一貫させるべきなのに
仮にレトリックだとしてもこんな言い方をすればクリスチャンの傲慢さを助長することになると危惧します

12節の「すべてのことは、わたしに許されている」というのも同様に傲慢に聞こえますが、
これは単に人は自由意志でなんでもできるが、なすことがすべて益になるわけではないと
いうことを言いたいだけなのでしょうか?

最後は聖徒の体はキリストの贖いによって買い取られた聖霊の宮なのだから
その体をもって神の栄光を表せという核心的なキリスト教倫理を語ってますね
2022/08/04(木) 06:11:51.82ID:CXH77vkH
>>36
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ7章です

「聖徒は世を裁く者」「わたしたちは御使いさえ裁く者」というのは
ダニエル書に始まり、マタイやルカに

マタイ9:28イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。
世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、
わたしに従ってきたあなたがたもまた、
十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。

ルカ22:30わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、
また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

まあ傲慢ですよね
2022/08/04(木) 06:18:24.33ID:CXH77vkH
>>36
12節の「すべてのことは、わたしに許されている」についてキリスト教は「」にいれて
パウロス先生の論的の意見ですよと解釈してパウロス先生の救済を試みてますが
違います。原文にあるパウロス先生の主張です。
単にパウロス大先生が傲慢なだけです。
39atheist
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2022/08/05(金) 01:32:48.57ID:S46eEoVJ
>>37-38
2-3節の部分はダニエル書などにも類型があるんですね
12節がパウロの言葉で、かつ単純に自分には(使徒の権能として)すべてが許されていると
言っているのだとしたら、どう贔屓目にとっても傲慢の誹りを免れないように思います

さて7章ですが、ここは専ら男女関係(結婚や夫婦のあり方)についてパウロが教会員に
助言や命令をしている箇所ですね

この箇所は男女を対称的な(シンメトリカルな)形で論じていて
ことさら女性蔑視と取れる発言はないように思います
また一方的で強圧的な物言いもさほど感じられません

この章で目につくのは26節以下で述べられている終末の差し迫った到来です
26節や29節のパウロの言を読む限り、パウロは自分たちが生きているうちに
終末が訪れることを確信しているようです

1コリと直接関係があるわけではないですが、パウロが終末の遅延を自覚しだしたのは
いつの頃からなんでしょうか?
あるいは最後まで終末が遅延しているとは考えなかったのでしょうか?
2022/08/05(金) 05:52:37.42ID:cL3oMlMR
>>39
atheistくん、おはようございます。本日聖句は1コリ8章です

1節の「男子は婦人にふれないがよい。」は、原文だと「人間は」です。
パウロス大先生にとって、人間=男性で、女性は人間ではないようなので
深刻なほど差別的です。
古代でもこういう場合は「男は」と書きます。
現代人もさすがに直訳する気になれないので「男子」と改竄しているわけです。

「7:27もし妻に結ばれているなら」の原文は「女に縛られているなら」です。
パウロス大先生にとって禁欲するのがベストなのですが、禁欲能力のない
男性は結婚することで性処理をしたほうが、性的放縦になるよりはよい。
しかし結婚は女性に縛られることである。女なんぞに束縛されず
開放された生き方の方がベストであるというヘンタコな人です
2022/08/05(金) 06:52:25.94ID:cL3oMlMR
終末遅延問題

決定的なの第一テサロニケで、終末が間も無く来ると断言した大パウロス先生ですが
来なかったので
疑似書簡の第二てさロケでは
2:2霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、
主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。

と、第一テサロニケを完全否定していたりします

パウロス先生が自覚しだしたのは、
クリスチャンが最後の審判前に死に出したからです。
彼の予測ではみんな生きたまま救われるはずでした
2022/08/05(金) 09:37:08.81ID:wg+T16DM
テスト
2022/08/05(金) 09:46:57.32ID:wg+T16DM
テスト
2022/08/05(金) 22:31:58.40ID:3+tf1Wf7
テスト
45atheist
垢版 |
2022/08/05(金) 23:51:21.83ID:S46eEoVJ
>>40
少なくとも1コリのこの章に関しては
内容上、男女を極めて対称的な形で書いているので、これは古代でも珍しいことなんじゃないかと
思いました
西洋の言語は「男」が「人一般」を表すことがあるので(これ自体、男性中心主義の現れですが)
パウロもその慣用に従ったってことはないですかね?コイネーの慣用が分からないので
なんとも言えませんが

>>41
さすがにクリスチャンがどんどん死に出しても最後の審判が来ないとなると
パウロ自身も考えを変更せざるを得なくなった、ということなんでしょうね

さて8章ですが、偶像に供えられた食物に関する章ですね

1節で言及される「知識」は4節で具体化されている内容と捉えていいんでしょうか?
要はユダヤ的な神(偶像)観による知識と考えていいのでしょうか?
そうだとすると、10節は(ユダヤキリスト教の)神を熟知した人たちが偶像の宮で食事をしているのを
知識のない人が見たら、その人はキリスト教の教えの下でも偶像に捧げられた食べ物を食べてもよい
と解釈して、滅びることになる、とパウロは言っているのでしょうか?

たしか使徒行伝などでは、ユダヤ教の食事規定は適用されない、ただし伝統的なユダヤ人に配慮して
偶像に供えられたものは食べないように、といった取り決めになっていたと思います
だとすると別に偶像に供えられたものを食べたとしても、配慮がないと言うだけで
良心が汚れるわけでも、滅びるわけでもないように思われます

パウロ側の手紙だけだとコリント教会側の発信が欠けているので
それを知らずに読む我々には具体的な文脈がよく分からないということもあるでしょうが、パウロの書き方
自体、持って回ったような書き方が多いので、もっとスッキリした書き方をしてもらいたいものですw
2022/08/06(土) 07:06:00.60ID:9EbVzJHA
>>45
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は使徒17:16-34

聖書では古代人感覚の男性本位主義により「男」が「人一般」を表しますが
その婆は「男」が使用されます。ここは逆です。
「男」が使われるべき箇所で、「人一般」が使われているのです
パウロス大先生が古代地中海世界において特異なのです

具体的な単語はアントローポスという人一般を指す語です。
普通であると、アネールとかアンドラスという「男」という単語が選択されます。
2022/08/06(土) 07:26:42.50ID:9EbVzJHA
>>45
1節の知識を諸訳は誤解しています。
コリントス教会の意見であるという風に解釈します。そして原文を改竄して訳します。
でもお気づきのように4節のことを指しています。
パウロス大先生は、かつてコリントスにおいて
「偶像の神などいない。おられるのは唯一の神だけなのだ。
故に偶像に捧げられた肉は、汚れていないので食べて良い。
いない神に捧げられていても、汚れようがない」というようなことを主張し
その解釈知識を真に受けたコリントスの人たちは、偶像に捧げた肉を食べていたわけです。

とろが、10節でかつて自分がした主張によって起こったいる事態について
制限を加える必要が出たわけです。
ユダヤ人が見たら、他教の神(偶像)に供えられた肉は汚れているからです。
自分が悪いのに、謝罪せずに、自分の知識は正しいが
「弱い者ために食べない。君たちも食べるな」と抑え込んでいるわけです。
ただ普通は肉を買って家で食べるので、神殿で食べるわけではないので
パウロス大先生のこの仮定はありえない極端な仮定です。
ということまで言って11節で弱い人が滅びるとまで主張します。
偶像の神なんていないのになんで滅びるねんと突っ込みたくなる展開です。

ということは4節を知識としてパウロス大先生は、コリントか教会で披歴したが
本音はなにがなんでも偶像に捧げられた肉なんて不浄で食べられるかという
宗教的感覚をエルサレム教会の人たちと同様に共有感覚として保有されていたのかもです
理屈としては汚れてないけど、食べる気はしないというのが実の所かもです
48atheist
垢版 |
2022/08/06(土) 23:52:24.31ID:bMmPkO3R
>>46
英語の man の場合だと、元来のゲルマン語の段階では人一般を表していたようです
それが後期古英語あたりから成人男性を意味するようになり、人一般の意味も存続していったようです
ゲルマン諸語やロマンス諸語では、このように、人一般を表す語が成人男性に特化して使われるような
経過をたどるようですが、他の印欧語はそうでもないみたいですね

ともかく現代英語で言えば、man(原則「男性」、古風な用法として「人」)を使うべきところで
パウロは human (being) を使ってるようなものなのですね

>>47
ここはめちゃくちゃよく分かりました
偶像の神などいないのだから、それに捧げた肉を食べたところで無問題、というのがパウロの言う
正しい知識で、それを真に受けたコリント教会の人たちがガツガツ肉を食うようになって
コリント教会の一部のユダヤ人たちと軋轢を生んでる、って状況ですね
取り決めではユダヤ人に配慮して偶像に捧げた肉は食わないようにしようとなっていたのに
パウロは食っても平気と言ってしまったものだから問題が生じ、自分は正しいが弱いもののために
お前らも食うな、と言ってるわけですね
そこに無理やり筋の通らない「食ったら滅ぶ」的な言い方をしたものだから、よく分からなくなってたようです

さて休日の使徒の箇所ですが、ここはパウロがアテネのギリシャ人たちにユダヤの神とキリストを
説法する箇所ですね

ここで言及される「知られない神」は多神教のギリシャ的宗教では、おそらくマイナーで知名度の低い神
あたりを指しているのだろうと思いますが、パウロはそれを利用して異邦人には知られざる創造神を
解いていくわけですね
なかなかうまい手法だと思います
もうちょっとギリシャ人たちの反応、特に反論した人たちの反応を詳しく記してくれたら
一神教対多神教の議論として面白かったのに、と思います
偶像崇拝否定の論脈はそれなりに説得力がありますが、やはり31節のようにいきなり
死人の蘇りを持ってきても、ここはなかなか信じてもらえなかったでしょうね
2022/08/07(日) 10:15:08.28ID:DAl4wbCd
>>48
atheistくん、おはようございます。明日の聖句は1コリ9章です。

アテナイ及び周辺地区で「知られない神」は未発見ですが、
複数形の「知られない神々」だといくつもの碑文が発見されています。

有名なのが、アテナイ外港のペイライエウスの東方のファレーロンの碑文。
「名前のあげられてる神々、知られざる神々、英雄の祭壇」

多神教的にあらゆる神々にささげものをする祭壇があった文化なのかもですね。
50atheist
垢版 |
2022/08/07(日) 19:24:32.70ID:4J1oKepJ
>>49
事実として確認されているのは「知られない神々」に対する碑文だけなんですね
もしパウロがそれを見て、「知られない神」に変更し、それを創造主と位置づけたのだとしたら
ほぼ詭弁と言っていいと思います

ギリシャ人にとっての神は数多いる神々のうちのひとつなのに
「知られない」という形容をいいことに、そこからひとりだけ抽出してユダヤ人にとっての創造主と
結びつけ、他をすべて偶像として排除することになりますからね

ただ実際上は、パウロはギリシャ人を言いくるめようとしたというよりも
その碑文を利用してギリシャ人に創造主、唯一神という概念を導入しようとしたのだと思います
 
やはりそれを聞いたギリシャ人たちの具体的な反応が知りたいところですね
2022/08/07(日) 20:43:25.86ID:DAl4wbCd
>>50
パウロが変更したのか
伝え聞いたルカが。間違えて聞いたのかは
不明です

事実としてあるのは「複数形の碑文」だけです
52atheist
垢版 |
2022/08/08(月) 02:54:09.23ID:K1v+IUQN
>>51
たしかにルカが聴き間違えたというケースもありますね
その場合でも、パウロは神々のひとつを唯一神である創造主として抽出したことは
ルカが創作したのでなければ変わらないので、やはりパウロは「知られない」という形容に
着目してそこからユダヤの神を導入しようとしたんだろうと思います

平日のパウロと休日のルカ(パウロの部分)が交互になっているので
そのままパウロ自身が書いた言葉のように感じてました
2022/08/08(月) 05:03:01.81ID:V6y8dCaD
>>52
atheistくん、おはようございます。
本日の聖句は1コリ9章です
54atheist
垢版 |
2022/08/09(火) 00:35:21.08ID:NrfjEhnM
>>53
9章はパウロの批判者に対する弁明ですね

前半は福音を宣べ伝える仕事に対しては食物等、物質的な対価があってしかるべき、という調子で
書かれていますが、15節からはそういった当然の権利を自分は利用していないし、物質的な対価を
もらいたいとも思っていない、と断言しています

パウロはなぜ福音を宣べ伝えているのかの理由を「そうせずにはいられないから」と述べています
さらに18節ではその報酬を「無代価で提供し、宣教者として持つ権利を利用しないこと」と言ってますが
これは対価(報酬)になるのでしょうか?
もっと素直に福音を宣べ伝えること自体が喜びである、とかそういった言い方なら
たしかに報酬と言えると思うのですが、パウロの述べる報酬はとても分かりにくいです
23節では明示的に報酬ということばは使ってませんが、「わたしも共に福音にあずかるため」と
理由を述べています
おそらくこれがパウロの本音なのではないかと感じます

27節は節制を説いた上で、説いた者の立場として自ら率先して節制する決意を表明しています
こういったところは感服します
自分にはやれと言われても、できませんから
2022/08/09(火) 05:36:27.11ID:2HYWbPb6
>>54
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ10章です。

パウロス大先生はエルサレム教会に献金するために各地教会から
大金を集めてました。そのことに対しての不満がコリントス教会にも
あったのを不正確に伝え聞いて、逆上しているのです。
「おまえら、金のことでいろいろ俺を批判しているらしいが
宣教者である俺自身は君らから献金を貰わず、自分の食い扶持を
自分で稼いでいたでは無いか、がたがた言うな」と。

でもよく考えてください。パウロス大先生は自慢されますが
自分の食い扶持を自分で稼ぐことはごくごく普通の事です。


パウロの述べる報酬がわかにくいのは、詭弁で構成されているからです。
この個所の論点は「エルサレム教会への多額献金」です
それに一切触れず、パウロス大先生は
1.宣教者は教会から献金を報酬として得る権利がある
2.しかして私は無報酬で君たちに福音を伝えた。
3.だから君たちは黙って私の権威に従い、エルサレム教会へ献金しなさい
と言っているのです

「わたしも共に福音にあずかるため」は誤訳です。
原文は「福音の共同者」です。
みんなと共に福音に与るとパウロス大先生はここでいってません
君たちに福音を伝える、福音の側になって、福音の共同者として、君たちを救ってあげる
と主張しています
56atheist
垢版 |
2022/08/10(水) 02:06:15.13ID:d6+NmAhA
>>55
本来はエルサレム教会への献金を各地の教会から集めていたことに対する
各教会の不満を、パウロは自身の生活費を集めていることに対する不満と
聞き間違えたわけですね

その上で、宣教に対する対価は本来もらって当然だが、自分は無報酬でやってる、
なのに不満を言うとはどういうことか、不満を言わずにエルサレム教会に献金しなさい、
とこんな感じで説得しようとしてるってことですね

途中で論旨がすり替えられちゃってますね

23節は「福音にあずかるため」ではなく、自身が福音の共同者として福音を伝えているのだ
という内容なんですね
これだと逆になっちゃいますね

さて10章ですが、ここもまた偶像礼拝(崇拝)に関することを述べた章ですね

11節まではモーセの例を引いて、偶像例はをしたり、不品行を行ったり、主を試したりしたものは
滅ぼされた、と言ってますが、このへんは民数記の具体例に言及しているのですかね
ただそれを教訓とするのはいいとしても、これらのことが起こった理由を「世の終わりに臨んでいる
わたしたちに対する訓戒のため」とするのはどうかと思います
単なるレトリックかもしれませんが、モーセの時代にはモーセの時代の生きた人々が
神と対峙し対話したわけであって、パウロの時代の人のための教訓として滅びたわけではないはず
だからです

あと気になったのはやはり20節です
これだと異教の偶像崇拝は悪霊に対する崇拝だと言っているに等しく
こういう態度にキリスト教を排他的な性格を与えてきたのだと思います

一方で26節のように地に満ちているものは神のものなのだから、良心を咎めることなく食えと
言っているのに、こと偶像へ捧げられたものに対する態度は一変して偏狭なものになっているような
気がします
57atheist
垢版 |
2022/08/10(水) 02:09:24.98ID:d6+NmAhA
> こういう態度にキリスト教を排他的な性格を与えてきたのだと思います

→ こういう態度が、キリスト教に排他的な性格を与えてきたのだと思います

の間違いです
なんでこんな間違えをしたんだろうw
2022/08/10(水) 07:27:07.35ID:7eFg2Yf+
>>56
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ11章です。

1-7節は出エジプトが下敷きで、「踊り戯れた」は、原文では「子供する」という動詞で
70人訳をそのまま引用しています。遊び戯れるという意味です。
8節から民数記が下敷きとなります。パウロス大先生は23000人としていますが
民数記25:9では24000人ですので、写本によっては訂正しているものがあります。

民数記25章ではモアブの娘たちと一部の人が淫行をなしたので
神が怒って、イスラエルに疫病をくだし、24000人が滅んだとあります。
全員が淫行したわけではありません。とばっちりです。

「世の終わりに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のため」は、
1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈に結論部分です。
ヘブライ語聖書の先例をこじつけにこじつけ、主張を展開しているわけです。

キリスト教神学では、伝統的にダイモニオンを悪霊と訳しますので、
20節は、強い意味となりますが、パウロス先生ご自身の主張は
異教の神霊に供え物を捧げると、異教の心霊の仲間になると言っているだけです。
勿論、パウロス大先生の時代すでに、キリスト教徒にとり神霊は悪霊ニュアンスがあったので
もろ排他主義ではありますが、悪霊と訳すといっそうイデオロギー化します
2022/08/10(水) 07:37:22.36ID:7eFg2Yf+
× 1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈に結論部分です。
〇 1節から続くパウロス大先生のアレゴリー解釈の結論部分です。

× 異教の神霊に供え物を捧げると、異教の心霊の仲間になると言っているだけです。
〇 異教の神霊に供え物を捧げると、異教の神霊の仲間になると言っているだけです。

>>56
パウロの本音は、20節です。
偶像に捧げられた肉を食べるものは、悪霊の仲間になる という立場です。
でも一方で、パウロス大生はコリントスで、我々は自由だ―と理想論をぶちかましたのです
でもこれは建前の話で、本音では無い。
理想論に食いついたコリントス教会員らは、偶像に捧げられた肉をおいしく頂いていた。
するとユダヤ感覚を持つ者たちから異様に映り
、混乱が生じた。
そこで、我々は自由だが、弱い人の為に自由を制限すべきだという論法で
コリントス教会員をパウロス先生は抑えにかかっているということです。

理想論に騙されてはいけません。パウロス大先生は偶像に捧げられた肉を絶対に食べないのです
食べたら、悪霊の仲間になると思い込んでいるのですから
60atheist
垢版 |
2022/08/11(木) 03:31:29.22ID:UtZd4DHS
>>58-59
民数記だけじゃなくて出エジプト記もネタ元になってるんですね

食に関しては自由だという理想論を説きつつ本音としては
偶像に捧げられた肉を食えば悪霊(異教の神霊)の仲間になってしまうと思っている、ってことですね
そういった矛盾した言説が交錯するため、パウロの主張は読みにくくなっているわけですね

さて11章が前半で男女の神学的相違を、後半で聖餐について論じています

前半はパウロの女性蔑視や男女のステレオタイプを示す発言としてよく取り上げられるところですね
3節の「神→キリスト→男→女」という序列を示す発言や5節の女は覆いを被れという発言など、さらには
14-15節の男女による長い髪の相違などがその典型だと思います

8-9節の女は男から出た(男のために造られた)というのは明らかに創世記の記述を下敷きにしていると
思われますが、10節の「だからかしらに権威のしるしをかぶるべき」という結論がよく分かりません

後半は聖餐はキリストの血肉をいただくものだから、それをふさわしくないままで飲食する者は
キリストの血肉を犯す者だと言っています
気になったのは30節です
主のからだをわきまえないで飲み食いすることが原因で、弱いものや病人が大勢いると
言ってますが、これは病はその人の罪のせいではないと言ったイエスの発言と矛盾するように思います
2022/08/11(木) 15:27:31.80ID:W4YO4fpE
>>60
atheistくん、こんにちは。本日の聖句は1コリ12章です。

2節は皮肉です。かつてパウロス大先生が理屈で
「自由なので偶像に捧げられた肉を食べても無問題」というのを憶えて
実践しているのであれば、以下の女性差別も憶えて置けということ。

古代でもこんな差別者はいないのだが
パウロス先生を批判した主要メンバーらが女性預言者らだったので、
攻撃に転じているので、ひどい発言になっている箇所です。

3節のような序列はパウロス先生の独自説。神の権威に名を借りて女性差別を
固定化する差別者。
3節を仮に認めたとしても4,5節は詭弁。そもそもそんな規定はギリシアのどこにもない。
大都会のコリント人に対して、オリエント風のユダヤ的風俗を押し付けようとしだけ。
勿論、大反発をくらった。

10節「女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。」
女が特定の男に従属しているしるしとして、「権威のしるし」をかぶってないと
堕落した悪い天使がやって来て、妊娠させますよ、ということ。

つまりパウロス先生は、女性たちを脅かして、教会で黙っているように押さえつけているのです。
女性から批判されていたからです
62atheist
垢版 |
2022/08/12(金) 01:56:46.32ID:e/mqLC2Y
>>61
背景的には、パウロを批判していた主要な人たちが女性信者だったということがあるのですね
3節以降は正直に言って、著しく不快です
もちろん古代のことですから、ある程度の男性中心主義は一般的なものであったはずですが
そういった悪弊を打ち破って教えを説いていったのがイエスであったことを鑑みると
こういった男女差別はイエスに対する裏切りに等しく思えるからです

10節の権威のしるしというのは男性の権威ということなのですね
女性の貞操と従属を示すため、ということなんでしょうね

さて12章ですが、ここはパウロがよく使う体とその部位の比喩で
クリスチャンはそれぞれ賜物や働きが異なってもキリストにあってひとつである、
ということを強調してる箇所ですね

それはそれでいいのですが、やはり28節に見られるように
単なる働きの違いにとどまらず、序列を付けているところに
パウロの権威主義的な性格の一面が現れているのかもしれないと感じました

今回の質問は以前にも別の箇所で同様のことを聞きましたが
この章で言えば、3節で「神の霊」、「聖霊」、4節以降で「御霊」となっている部分です
口語訳では一応「聖霊」ということばが入っているので
これらはみな聖霊のことを指しているように読めますが
実際の原語ではどのようになっているのでしょうか?
2022/08/12(金) 07:49:05.31ID:OgnCZgDV
>>62
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は1コリ13章です

3節「神の霊」、プネウマ・テオー(テオスの属格) 直訳は神の霊
「聖霊」、 プネウマ・ハギオー(ハギオスの属格) 直訳は聖なる霊
4節 「御霊」 プネウマです。

日本語訳では、単なるプネウマを文脈に合わせて
「聖霊」「悪霊」「御霊」と訳し分けたりしますが、ここはほぼ原文通りです。

問題は「神の霊」と「聖霊」と「御霊」とは同じものを指していますが
なぜ分けているかですが、単に言い換えているだけで特別な意味はありません。

28節原文では、「一方でまず使徒となし、第二に予言者、第三に教師、
それから力あるわざ、次にいやしの賜物、また援助、舵取り、種々の異言を語る者」
とありますので、使徒・予言者・教師はパウロス先生の認識では人を指す用法で、
それから以降は、事柄を指す用法です。
つまり使徒・予言者・教師は教会の職責ですが、
それから以降は教会員の誰もが行うことが可能な行為です。
口語訳は、それから以降も~する者と訳していますが、原文には無いです
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