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宗教板避難所2

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1臨時で名無しです
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2022/07/13(水) 17:34:34.75ID:hTLkqwwt
規制で入れない方はこちらへ
109福音伝道
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2022/08/29(月) 07:04:33.99ID:nRCM0/uI
>>108
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ8章です

略解は1コリ15:32のエフェソスの事件かもしれないと推定を述べているが
1コリ15:32箇所では、「獣と戦った」は字義通りか比喩か意見が分かれる。
襲路楽過去にあったことで手紙の相手にはわかることを比喩的に語っていると
とるほうが無難であろうとしています。

だいたいロマ市民権のある者が闘技場で獣の闘わせられる事は無く、
闘うのは奴隷なので私は比喩と言う立場です。

パウロス大先生はものごとを大袈裟にいうのが好きなので略解らは、比喩と理解
した上でなんらかの事件があったという解釈です。
110福音伝道
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2022/08/29(月) 07:06:22.02ID:nRCM0/uI
× 襲路楽
〇 おそらく
2022/08/29(月) 23:31:26.12ID:cLROqtVa
「統一教会」 が米国に寿司を広めた知られざる経緯. 日本人信者たちがいかに寿司企業を拡大したか.
東洋経済 2022/07/20 10:15
https://toyokeizai.net/articles/-/604521
2022/08/29(月) 23:32:05.14ID:cLROqtVa
アメリカの SUSHI レストランの8割を供給する 「統一教会」
現代ビジネス 2022.07.31
https://gendai.media/articles/-/98076?page=2
2022/08/29(月) 23:32:43.06ID:cLROqtVa
統一教会、日本人を使ってアメリカの寿司レストランで荒稼ぎをしていた
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1659351860/
2022/08/29(月) 23:33:27.09ID:cLROqtVa
旧・統一教会がアメリカで“生魚”を売り始めた 「意外な理由」 ─ 寿司ブームを支えた “日本人信徒たち”
ニューヨーク・タイムズ・マガジン
https://courrier.jp/news/archives/269954/
2022/08/29(月) 23:34:12.25ID:cLROqtVa
「アメリカに寿司を広めたのは韓国の統一教会」 米ニューヨーク・タイムズ紙報じる
Your News Online 2021年11月8日
https://yournewsonline.net/articles/20211108-sushi-in-america-unification-church/
2022/08/29(月) 23:34:43.19ID:cLROqtVa
反共、スシ、ライフル。統一教会とその 分派はアメリカでどう広がったか
週刊プレイボーイ 2022 05 01
https://wpb.shueisha.co.jp/news/politics/2022/08/01/116936/
2022/08/29(月) 23:35:26.43ID:cLROqtVa
宗教法人世界平和統一家庭連合周辺の和食系
https://www.navitime.co.jp/around/category/poi?spt=00011.030325428&category=0305
2022/08/29(月) 23:36:13.16ID:cLROqtVa
ニューヨークにあった統一教会系のレストラン
Ameba 2022年07月13日
https://ameblo.jp/satsuki-007/entry-12753153025.html
119HANADA🐙
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2022/08/29(月) 23:36:54.86ID:cLROqtVa
「旧統一教会」は海外でどんなビジネスをしているのか 
IT media ビジネス ONLINE 2022/07/21(木) 7:48
https://news.yahoo.co.jp/articles/f8365dd2dcf9528053dbfd9d869b33ddff2c5829?page=1
120WILL🐙
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2022/08/29(月) 23:37:39.76ID:cLROqtVa
統一教会が日本の 「魚(豊洲)」、「肉(飛騨和牛)」 を世界へ
Ameba 2022年08月18日
https://ameblo.jp/et-eo/entry-12759433165.html
121atheist
垢版 |
2022/08/30(火) 02:36:19.96ID:/qpZygMn
>>109
そう言えばパウロはローマ市民権保持者でしたね
だとするとやはり比喩と取るほうが適切だと考えられますね

さて8章ですが、ここは端的に言って、コリント教会の人たちに寄付を呼びかける箇所ですね

ただマケドニアの諸教会を引き合いに出して寄付を「競争」させるような文面になっていて
あまり感じのいい呼びかけには感じませんでした

暗に信仰や愛の大きさを寄付金の額で量っているから、それなりに出せよ、と言ってるみたいで
もっと素直にエルサレム教会の兄弟たちがお金に困っているから、できる限りでいいから
寄付してほしいと訴えかけたほうが素直にことばを受け取れるような気がしました

18節の「テトスと一緒に、ひとりの兄弟を送る」と言及されている兄弟は誰であるか
分かっているのでしょうか?
ここでは名前が書かれていませんが、なぜコリントにこれから行かせようとしている人物なのに
名前が伏せられているのでしょうか?
122福音伝道
垢版 |
2022/08/30(火) 05:32:57.06ID:iluPXPKe
>>121
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ9章です

パウロス大先生は、教会から金を受け取らず、自分の食い扶持を自分で稼ぎながら
伝道したというのが自慢なのてすが、この章では威張り腐った上で献金を呼びかけています。
しかも献金という言葉を使わず、「神の恵み」という概念を利用して
神があなたたちに恵んだのだから、あなたたちも貧しいエルサレム教会に恵みなさいと
命令しています。
その際にマケドニアの諸教会を引き合いにだしています。
フィリポイ、テサロニケ、ベロイアから献金を集めていたようです。
それでお前たちも出せ、その額で君たちの愛をはかるというような論調です

結局金をせびっているわけです。しかも偉そうにです。最低な人です
123atheist
垢版 |
2022/08/31(水) 02:51:17.45ID:N61GAsX6
>>122
こういうところは信仰を出汁にして献金を競わせるカルト的手法に近く
非常に危険な発想だと感じます

さて9章ですが、ここでは冒頭「聖徒たちに対する援助について」と書いてあります
まずこれは前章のエルサレム教会への寄付とは別のことなのでしょうか?

ここでも、「しいられてでもなく」(7節)とは書いてありますが、実際の文面は
ほとんど心理的に強制をかけるような言い方で援助を強いていると言っていいと思います

というかこの章を読んだら、繁栄の神学はちゃんとパウロに書いてあるではないかと
言われても反論できないような気がします

なぜぐだぐだ屁理屈など言わず、素直に援助を請えないのか、とどうしても感じてしまいます
124福音伝道
垢版 |
2022/08/31(水) 06:40:29.74ID:eMWs6al+
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ10章です

エルサレム教会への援助の事です。8章と同じ内容をくどくど
繰り返しているだけです

ところが教会は、この章と前の章を1-7章と別の手紙と解釈します。
略解曰く
「1-7章と8,9章は同じ手紙なのか、別々の手紙なのか議論されてきた。
ほぼ同時期に書かれた一つの手紙ではあるが、8章はコリントスへ宛てられた手紙
9章はコリントス周辺のアカイア州に宛てられた手紙である
あるいは9章は8章わ捕捉するために少し時間をおいてかかれたものである」
注解曰く
「前の章では献金への動機づけ。9章では自発的に献金することを強調している」

ただ献金するだけではなく、自発的に献金しなさいとカルト牧師の模範となっている
箇所ですね いわばみんなパウロス大先生の真似をしているのです

略解も注解も、89章を「エルサレム教会への献金」としています
2022/08/31(水) 07:39:24.27ID:qPJfMOSY
テスト
126atheist
垢版 |
2022/09/01(木) 01:09:48.36ID:qCOyUuLR
>>124
エルサレム教会への献金ということですね
ただ1節の「~については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はない。」という文言を見ると
前章の献金とは別物か、同じものだとしたら別の教会宛ての手紙が挿入されたように見えます
同じ献金で、同じ相手宛ての手紙だとすれば、前章でエルサレム教会への献金について語っている
わけですから、ここで「聖徒たちに対する援助(=エルサレム教会への献金)については、
いまさら、あなたがたに書き送る必要はない」という文言は成立しそうにないからです

ですから略解の「8章はコリントスへ宛てられた手紙、9章はコリントス周辺のアカイア州に宛てられた手紙」
あるいは「少し時間をおいて書かれたもの」というのは説得力があるような気がします

いずれにしても8章も9章も自発的にとは言いながら、相手の信仰を盾に献金を強要するような書き方に
なっていると強く感じます

さて10章ですが、ここでは間接的にパウロに対する周囲の評価がパウロの口を通じて語られているので
ちょっと興味深い箇所ですね

簡単に言ってしまうと、リングの外では虎のように振る舞うが、いったんリングに上がると
借りてきた猫のようになる、といったところでしょうか

こういった評価に対して、パウロは「いやいや甘く見るなよ、リングに上っても俺は虎だから」と
言い返しているように見えます

とはいえ、ここもまた具体的なことが書かれていないので、何が問題になっているのか分かりません
たとえば5節の「障害物」や「処罰」が具体的に何を想定しているのかがさっぱり分かりません

最後の18節の「主に推薦される人」というのは暗にパウロ自身のことを言っているように読めました
2022/09/01(木) 01:13:33.29ID:c2D9wb/p
テスト
128福音伝道
垢版 |
2022/09/01(木) 06:44:54.26ID:JjzI41Vp
>>126
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ11章です。

1節について、鋭いですね。原文は「あなた方に対して書くのは、私にとって十分である」なのですが
口語訳は九章は八章と別の手紙であるという立場に立つRSVを訳しているだけです。
RSVは「十分である」という部分を「必要ではない」と解釈しているのです

問題となるペリソスという形容詞の対格形で、原意は「通常の限度や必要量を超過している」という形容詞です
十分であると言った口でながながとまた繰り返すのがパウロス大先生流です

10章です
5節「障害物」の原文
129福音伝道
垢版 |
2022/09/01(木) 06:52:41.99ID:JjzI41Vp
10章です
5節「障害物」の原文は「高いもの」ですが、「高慢」のことですね

6節すべての不従順を罰すると言ってますね
お前たちは俺をコリントスにいるときはおとなしい。強気なのは手紙だけだと
言っているが、今度そっちに行った時は、俺に逆らう奴はすべて処罰するからな
と強がっている箇所ですね

パウロス大先生は、自分は主に推薦される合格者だと自認していましたが
コリントス教会はそう思ってなかったということですね
だって、たとえば美魔女がキリストから幻で使徒に任命されたと言っても
誰も説得力を感じないのと同じですね
そこでパウロス大先生は献金を集めてエルサレム教会からの評価をあげたかたのかもですね
2022/09/01(木) 17:16:38.62ID:+en19pRO
テスト
131atheist
垢版 |
2022/09/02(金) 03:26:32.48ID:XdPKQaNj
>>128-129
1節の口語訳は特定の解釈に基づく意訳になっているわけですね
たしかに「あなた方に対して書くのは、私にとって十分である」であれば
前章からの連続であってもおかしくはないような気がします

5節の「障害物」は「高慢」で、「処罰」は不従順に対する処罰ということですね

コリント教会ではパウロが生前のイエスを知らないことに対する疑念があって
それに対するパウロの反論というのが手紙の底流にあるため
「主に推薦される人」といったある種奇異な表現が出てきたのかもしれません

さて11章ですが、この章は5節にあるように、「大使徒たち」に対する対抗意識が強く出ている章だと
思いました

12-13節の「わたしたちと同じように誇りうる立ち場を得ようと機会をねらっている者ども」「にせ使徒」は
この大使徒たちではないでしょうが、パウロに対抗するような使徒たちなのでしょう

後半は今まで如何に自分が苦難にあってきたのかを「誇っています」
ここもまた23節にあるように「彼ら以上に」キリストの僕として苦難を経験してきたことを
切々と訴えています

こういったところからも異邦人への伝道が、かならずしもパウロ派によるものだけではなかったことが
わかりますね
132福音伝道
垢版 |
2022/09/02(金) 06:38:22.49ID:CJnZ8YlV
>>131
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ12章です。

パウロス先生は、コリントス教会を自分で開拓したと自負されてました。
そこに他の宣教師がやってくると激しく嫉妬されました。
で、3節純情と貞操を教会員に強要しているわけです。

その上で5節大使徒と祖肉を言っているわけです。大使徒は原文では
スーパー使徒です。日本語訳は通例では「大使徒」と訳することになっていて
口語 新共同 新改訳第三版 新改訳2017 岩波委員会訳は大使徒
フランシスコ会訳 聖書協会共同訳 田川建三訳は「お偉い使徒」「あの偉い使徒」「お偉い使徒」
と訳して皮肉感も訳出しています。
私は今後は「スーパー使徒」と訳する訳が出て来ると思います

13節のにせ使徒はスーパー使徒のことですね。
パウロス大先生と違う福音を伝える宣教師を「偽使徒」とみなしている箇所です
色々な潮流が宣教していたわけですが、その中でパウロス先生はむしろ
異流だったのです。
異流ではあったが後代パウロス派が本流というか、この流れのキリスト教しか
ないのでわれわれは誤解してしまうわけですね

ただ23節以下、パウロス先生はかずかずの苦労の中で宣教していたようです
すごい熱量ですね。普通ならくじけるところですが、このがんばりはすごい
しかしパウロス先生は苦労したから俺は本物だと言っておられますが
論理的にはそれはつながりません 別の事柄です
2022/09/02(金) 12:23:13.40ID:XdsFqUjG
テスト
134atheist
垢版 |
2022/09/03(土) 01:09:56.57ID:ClTWVDvk
>>132
「大使徒」でもそれなりに皮肉は感じられますが「お偉い使徒」等のほうが
ダイレクトに皮肉が感じ取れますね

「にせ使徒」もその「大使徒」のことなんですね
もうこのころからキリスト教内では正統と異端の熾烈なせめぎ合いがあったのだろうということが
察せられます

23節以下は、信仰や伝道にまつわる受苦が、キリストとの一体化を示すものとして
ある意味で信仰の真実を推し量る尺度のようなものになっていたということなのかもしれません

さて12章ですが、ここでも前章の「大使徒」との比較を引きずりつつ、パウロ特有の逆説的な
言い回し(9節、10節など)で、自分の正当性を切々と訴えかけているように感じました

14節に「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。」とありますから
すでに二度コリントには赴いていて、三度目の来訪に備えてこの手紙を書いているということが
わかります

16節に暗示されているように、おそらくコリント教会やそこを訪れた他の使徒などから
パウロはコリント教会から寄付を集めそれを私用に供したかのような噂が流れていたことが
伺いしれます

この手紙が終始、弁明口調になっているのはこういった背景があるからなのだろうと感じます
135福音伝道
垢版 |
2022/09/03(土) 06:50:33.48ID:6E3u5HJB
>>134
atheistくん、おはようございます。
本日と明日の聖句は使徒9;36-42 ヤコブ2:14-26です

12:2に第三の天と出てきます。第一の天が空。第二の天が宇宙。
第三の天が我々の行くパラダイス。神は第四の天に住むと古代人は考えてたそうです
と聞いたことがあるのですが、田川建三に拠ると
同時代のヘノク書は七層の天が描かれており、ヘノク自身は第六まで登ったそうです
また十二族長の遺言の「レヴィの遺言」には三層の天が出てき、第三天までレヴイが見たとあるそうです
三層と七層の二系統があるとのこと

16節 エルサレム教会への献金はパウロス先生が言い出して勝手に集めたものですので
エルサレム教会から来た信徒、あるいは宣教師らが
エルサレム教会は、あなたがたから献金を集めたりしてませんよとコリントス教会で言ったのかもです
それを聞いて、なぜ献金を集めているんだと疑念が生じ
中にはパウロス先生がエルサレム教会をだしにして私腹を肥やそうとしてるのでは?みたいな憶測を産み
それがパウロス先生に聴こえ、激怒したということかもですね
2022/09/03(土) 17:30:46.48ID:kMVrwOIl
テスト
137atheist
垢版 |
2022/09/04(日) 02:30:06.13ID:PXiFnwEw
>>135
あ、そういえば第三の天についても聞こうと思ってたのに忘れてましたw
少なくとも古代人にとっては「天」というのは精神的な領域というより実在する物理的な領域だったんですね
以前復活体について議論した際に調べた時も、古代人にとっての天は
現代人が考えるような霊的精神的な存在であるというよりも確固とした物理的実在性をもったものという
結論でした

エルサレム教会への献金は依頼されたものではなくて、パウロが自主的に要求していたんですね
そうだとすると疑われることがあったのはよく分かります

さて休日分ですが、使徒がタビタを復活させたペテロの話、ヤコブはしばしば信仰義認に関して
取り上げられる、行いを強調した箇所ですね

ふたつの関連はよく分かりませんが、ヤコブの箇所は一見信仰義認に反することばに見えますが
(実際それゆえにルターは正典からヤコブを取り除こうとしたくらいですから)
「行いを伴う信仰」を強調したもので、わたしにはごくまっとうなことばのように感じられます

22節にある「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」というのがそれを
よく示していると思います

ここは何も信仰義認に対立する箇所ではなく、行いに現れるほどの信仰でなければ意味がない、
あるいは真に信仰を深めれば、それは行いに必然的に現れるものだ、ということだと思います
138福音伝道
垢版 |
2022/09/04(日) 06:54:16.37ID:9eusL/nB
>>137
atheistくん、おはようございます。明日の聖句は2コリ13章です

ペテロは十字架の時、3度イエースースを否んだへたれですが
ペンテコステの後は聖霊によって力強く歩みだしたことになっています
(教会の作り話)
つまりペテロは信仰を行動によって証ししていたわけです。
ヤコブの個所も、信仰があるならば行為せよということですね

教会が信徒たちに行動を喚起しているのかもですね
惰性で教会に通っているだけの方も多いでしょうし

2:26霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。
などを読んでルターは
藁の書と言って嫌ったのかもですね

信仰によって救われるという位相と
信仰ゆえに愛の実践をするという位相は別の様な気がします。
自分が救われるために、災害ボランティアや募金をしているわけではないでしょうから
139atheist
垢版 |
2022/09/04(日) 21:29:34.75ID:huZ2NaTl
>>138
> つまりペテロは信仰を行動によって証ししていたわけです。

なるほど、行為ができなかったヘタレのペテロが果敢に行動によって信仰を証しするまでになった、
と解釈する教会の観点から、使徒のこの箇所とヤコブをつなげたってことですね

わたしは親鸞はよく知らないのですが、ルターは悪人正機説とよく似てるんじゃないかという
感じがします

善行を行えない悪人こそ一心に神(仏)にすがるしかないのだから
その信仰こそ救いの契機となる、罪人(悪人)は自分が罪人(悪人)であることを自覚するからこそ
直接的に救いの対象となる、といった感じでしょうか

かたや「恩寵のみ」、かたや絶対他力、と語られる表現は違っても
信仰の構造は驚くほど似通っているように思えます
140福音伝道
垢版 |
2022/09/05(月) 05:31:16.27ID:jV5yGlaw
>>139
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は2コリ13章です
救いの主体が本人から、神(阿弥陀)に転換されている所は同じですね。

ちなみに親鸞は「他力」。明治以降の真宗が「絶対他力」と言い出して広がりました。
他力=本願力に、絶対も総体もございません。ただの他力です
141atheist
垢版 |
2022/09/06(火) 01:46:59.63ID:cCEogkKX
>>140
真宗が明治期に、おそらくは浄土宗との違いを明確にしようとして「絶対」という形容をつけたって
ことなんでしょうかね

さて13章ですが、いつの間にか2コリも最終章になってましたw

もちろんこの章は手紙最後の挨拶ということにはなりますが、その前に
パウロはかなり強い調子で「前に罪を犯した者たち」その他に対して悔い改めを求めているようです

3節でパウロは「あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を求めているから」と
理由を語っていますが、この「キリストの」というのは古文調で、「キリストが」ということでいいのでしょうか?
そうだとすると、要はパウロが真にキリストにおいて語っているかどうか疑念を持つ人達に向けて、
言い方は悪いですが、キリストの絶対性を盾にして「容赦しない」ことがパウロがキリストにおいて
語っている証拠だ、と言っているようで、どうもキリストの権威を笠に着て強引に自分を認めろと
迫っている印象があります

それに関連して7節でパウロにしてはおそらくは珍しく「良い行い」を促しています
パウロは、信仰や愛や希望を強く語ることはあっても、直接的に「良い行い」に言及することは
あまりなかった印象があります
ここもどうしても前段からの流れで、この「良い行い」というのはパウロに疑念を持つなと言っているように
感じられてしまいます

この辺は単なる私の邪推かもしれません
少なくとも教会の信仰者は、そういった教会政治的な意味ではなく
純粋にそのまま「良い行い」として受け取っているのでしょうし、信仰としてはそれで良いのだろうと思います
142福音伝道
垢版 |
2022/09/06(火) 06:22:11.75ID:xsw70Irh
>>141
atheistくん、おはようございます。先日の聖句は雅歌1-2章です。

3節の「の」は仰せの通り、主格の「の」ですね
最新訳の聖書協会共同訳
「なぜなら、あなたがたはキリストが私によって語っておられる証拠を求めているからです。」

そもそもコリントス教会に他の宣教師らがやってきて、直接イエースースの話を聞いたことのある
者たちから教えを受けて、パウロス先生は「俺の中のキリストが語っている」と言うけれども
それは本当か、何を根拠にそう言えるのか証拠をみせてほしいと思っているのです。

それに対してパウロス先生は幻覚で会ったキリスとを否定されて立腹し
個人的でかなり偏向した倫理観をキリストの命令だと押し付けたことの証拠を出せず
結局は自分の言う事を聞かないとキリストの権威をもって裁いてやるぞと脅しているわけです

ほぼあほだし、最低人格なのです
143福音伝道
垢版 |
2022/09/06(火) 06:31:16.22ID:xsw70Irh
1コリで伺い知れたコリントス教会とパウロス先生のトラブルは
偏狭倫理観を巡る問題です

1..信者になったら結婚するな・・・譲歩しているが基本姿勢は維持
2.偶像崇拝者とつきあうな・・・譲歩しているが基本姿勢は堅持
3.神殿に捧げられた肉を食べるな・・・理屈では問題ないとしつつ、悪霊と交わる行為と断固否定
4.女性は髪を覆いなさい・・・堅持
これをキクリストスが言っているとパウロス先生主張したが
イエースースを知っている他の宣教師が否定

そこで2コリでは
1.パウロス先生のクリストスは本物なの?問題が起こった
2.エルサレム教会への多額献金強要問題
この二つの是非が問われたのです

そしてパウロス先生は、俺に逆らったら裁いてやると言うのみで
合理的な説明をしていないのです
144atheist
垢版 |
2022/09/07(水) 02:13:16.25ID:NYtai6DR
>>142-143
実際にイエスから直接話を聞いた使徒の教えとパウロの教えの間に齟齬があるということを
背景に、コリント教会ではパウロに対する疑念が
1. パウロが出会ったキリストの真偽
2. エルサレム教会への献金強要
という2つの問題に集約されて問われた、ということですね

パウロはそれを有効に説明できなかったために強圧的な口調になっている、と

パウロのキリストに対する神学的解釈は今日のキリスト教の礎を築くものですが
同時に具体的な倫理観については偏狭な教えを残してしまった側面があるわけですね

さて今日からは雅歌ですが、これはちょっとえっちい本ですよねw
最初に読んだときは、なんで聖書にこんなえっちい本が収録されたんだろうと疑問に思いました

ぶっちゃけて言うと、男女がお互いの容姿をエロく賛美しあっているだけの恋歌集のように感じました
ただ途中で主役の男女以外の人の発言も入ってくるのでちょっと混乱します

1章で印象に残ったのは6節で、乙女の側が日焼けを恥じているところです
イスラエルでも女性は白い肌が美しいという価値観があったんだなあ、と

2章は冒頭、「シャロンのばら」が出てきますが、シャロンさんは自分のコテハンをここから取ったんでしょうかね

2章で印象に残ったのは若く美しい人の容姿を喩えるのにかもしかや鹿が用いられていることです
これもまた文化を問わず若く美しい容姿の形容として使われることが多いんだなあという印象です

どうでもいいことですが、6節の「彼の左の手がわたしの頭の下にあり」の「頭の下」って
どこだか分かりませんw
顎の下のことですかね?
2022/09/07(水) 03:36:07.46ID:bU6eH+gm
テスト
146福音伝道
垢版 |
2022/09/07(水) 05:39:45.12ID:Q1LDOS4t
>>144
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は雅歌3-4章です。

フランシスコ会訳注によると、BC4-3c、パレスティナにおいて書かれ、内容は
若者と乙女が互いに慕い合い、相手の美しさを称賛し、終わりに結ばれる
という展開になっていて六つの歌からなっているが互いの歌に横のつながりはなく
独立しているとのことです。
しかしAD1C末頃に「比喩的解釈」が生まれるとユダヤ教でもキリスト教でも
雅歌はエロティックな肉体的愛を称賛する歌であるという考えは払拭され、
花婿はイスラエルを愛する髪であり、花嫁は唯一の神を愛するイスラエルの民である
とする考え、キリストと教会、神と聖母マリア、キリストととキリスト者の霊魂と解釈される
ようになり、キリスト教ではオリゲネス以降、この解釈が定着し古代教父、中世の神秘家
によって多くの注釈が書かれているそうです。

わたし個人的には、ある女性クリスチャンが雅歌のエロティックで甘美な愛を
キリストと自分との関係のように読み、信仰の甘美さを味わっている方を見て
なるほど信仰的に読むひとつの具体を見た事があります
147福音伝道
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2022/09/07(水) 05:59:59.55ID:Q1LDOS4t
対してハーパー注解は手厳しい。
聖書の中で唯一の恋愛詩であるとし、伝統的に
霊的アレゴリーとして正当化してきた。
神とイスラエルの民、キリストと教会、個人の魂との愛と
解釈することは想像力に富み感動的ではあるが
テキストの本来の意味を開明するものではないと一刀両断にしています。

理由として、人間の愛が語られ、神についてはまったく語られてない
ではないかとハーパー注解は主張します。まあその通りなんですがw

6節の「彼の左の手がわたしの頭の下にあり」
つまり、彼女が男性に腕枕をさせているということですね。
恋人同士が、恋人に腕枕してもらうと、
後頭部の下に相手の腕がちょうど枕のように下に来ます
そして他方の腕で男性は女性を抱くというとてもエロティックな状況です
2022/09/07(水) 16:57:07.25ID:Xt1lzwTF
テスト
149atheist
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2022/09/08(木) 03:40:22.00ID:J4F9+Enj
>>146-147
けっこう書かれた年代は新しいんですね
もっと古いと思ってました

花婿と花嫁を、神とイスラエルの民、あるいはキリストと教会のように解釈するのは
わたしもコメンタリーなどで読みましたが、普通の解釈としてはかなり無理がありますよねw
おっぱいとか出てくるのに、どうすんだ、とw

ただ雅歌の元の意図を離れ、いわば創造的解釈として
信仰の観点から寓意的に解釈するのはありだと思います

先生が挙げた女性クリスチャンの例はよく分かるような気がします
ピッピさんもキリスト信仰がキリストとのエロティックな関係と重なっている時期がありましたね
このように女性信者にとっては教会的解釈は比較的受け入れやすいのかもしれません
男性はおっぱいのところで躓くと思いますw

テキストの本来の意味という点ではハーパー注解の言うとおりだと思います

「頭の下」については目からうろこでした
完全に立った姿勢を思い浮かべて考えていたので、いったいどこなんだろうと思ってましたが
なるほど横になった姿勢であればたしかに後頭部ですね

さて3-4章ですが、3章はなんのことやらわけが分かりません
とりあえず意中の彼になんとか出会って母の部屋に入り、これから事に及ぶのかと思えば
5節では彼は寝ちゃったんですか?

しかもそのあとはソロモン王が出てきて、いったい何のつながりがw

4章は花嫁を様々な比喩で賛美しまくってる章ですね
途中(9節)から呼びかけが「わが妹、わが花嫁よ」となってますが
花嫁を妹に喩えているのでしょうか?
150福音伝道
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2022/09/08(木) 05:22:45.71ID:Dr3UkIaN
>>149
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は雅歌5-6章です

フランシスコ会訳注は、BC4-3cとしていますが
ハーパー注解によると、成立年代は決定出来ないとしたうえで
学者の諸説はBC950-BC200に及ぶと紹介しています。
保守派はできるだけ古い成立を推定し、リベラるは若い成立説ですね

1-4節は花嫁の歌ですね。
寝室に彼氏がいなかったので外に出て探し回り
ようやく発見して寝室まで連れ帰ったという歌です

5接は、花婿の歌です
彼女が自然に目覚めるまで寝かしてあげるという歌ですね

二つの歌にそもそもつながりはありません

教会的解釈では、
花婿を探す花嫁は、神あるいはキリストを探し求める信仰者のこととなります。
パウロがダマスカスでキリストに遇ったように
夜の闇の中で神を探し求め、主に邂逅すると読むようです

6節からは、第三の歌がはじまります。また別の歌なのです
6-11節はソロモン王と王妃の結婚を唄った歌だそうです
ややこしいですよね こんなの注解がなければわかりません
151福音伝道
垢版 |
2022/09/08(木) 05:22:53.77ID:Dr3UkIaN
フランシスコ会訳注によると
4:9 妹という語は広い意味を持ち、同部族の人々、友情を表す言葉
として用いられもするそうです。
福音派によると
妹(アホーティ)は、血のつながった妹のことだ
古代中近東では同族結婚は当たり前であった。
イブはアダムから作られたし、サラはアブラハムの血縁者であった
イサクの妻リベカ、ヤコブの二人の妻レアとラケルもみな血縁者だと言ってます。
152atheist
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2022/09/09(金) 01:53:54.39ID:xQu9o2Jj
>>150-151
成立年代は確定していないのですね

5節は花婿の歌で、6節からはまた別の歌だったんですか
前置きもなしに歌っている人が変わると訳分かんなくなりますw

とりあえずヘブライ語で「妹」ということばはかなり広い意味で使われているってことですね
福音派の解釈では古代の同族婚を背景に血縁者と解釈してる、と

さて5-6章ですが、ここもまた途中で前触れもなく歌う人が変わっているようです
5章は1節の呼びかけ(わが妹、わが花嫁よ)で男の歌と分かりますが
2節では戸口にいる者が「わが妹」と呼びかけているので、歌の主は女になっているようです
以降はそのまま女の歌になっているように読めますが、9節以降は8節に呼応する形で
歌われているので、これまた別人の歌のようです

6章は5章の終わりに続いてその「別人」が歌っているようですが
2節からは1節に呼応して女の歌になっているようです
ところが8節からは王妃が出てきますから、これまたさらに別人の歌が混じっているように読めます

それにしても比喩は大仰なものが多く、なかにはいったいどんなイメージなのか想像がつかない
ものもあります
6章の6-7節など、さっぱり分かりませんw
頬の比喩がざくろの片割れって、グロテスクなイメージしか浮かびませんw
153福音伝道
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2022/09/09(金) 05:32:27.46ID:wxkrhMJP
>>152
atheistくん、おはようございます。本日の聖句は雅歌7-8章です

フランシスコ会訳ですと「小タイトル」がはいってますのでわかりやすです。

5:2節から第四の歌となり、花嫁の歌となります
おとめたち 9節
花婿 10ー16節
おとめたち 6:1
花嫁 6:2-3
第五のうた
花婿 6:4-11
花嫁 6:12
だそうです
2022/09/09(金) 09:50:57.22ID:t0E3RT1R
テスト
155atheist
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2022/09/10(土) 02:01:08.41ID:q3Mt65TB
>>153
今確認したら新共同訳やNIVなんかでも若者の歌とかHeとかって形で
どこからが誰の歌か分かるように入ってました
口語訳のようにそれが入っていない訳は恐ろしく混乱してしまいますね

さて雅歌も最後です

7章は今までで最もえろい歌ですね
新共同訳で確認してみましたが、節立てが口語訳と違っているようです
口語訳で言うと9節までが若者の歌で、10節以降が乙女の歌になっているようです

訳もずいぶん違いますね
新共同訳のほうがはるかにわかりやすいです

で、ここでの質問は口語訳2節の「ほぞ」です
新共同訳では「秘められたところ」となっています
ざっと諸英訳を見てみましたが、ほとんどが「へそ」で口語訳と同じ、数訳が「体」と訳していました
ここは実際、どこを指しているのでしょうか?

8章は新共同訳によると、乙女の歌と合唱が交互になっており13節のみが若者の歌になっているようです
しかも口語訳で言うと5節の前半が合唱で後半から6節の前半までが乙女、さらに後半が合唱になってます
こんなの口語訳だけ読んでも誰も分かりませんw

ともかく5節後半から6節前半って、これぶっちゃけまぐわいを求める歌ですよね?

8節から10節はもうおっぱいが中心テーマです
ある程度おっぱいが大きくなることが結婚の条件みたいになってますが
貧乳はどうなるでしょう?乳バンドにパッド詰めて盛っとくしかないんでしょうか?
156福音伝道
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2022/09/10(土) 06:59:54.16ID:ywJje7Pm
>>155
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は1列王2:1-12 3章

ほぞの原語ショールの意味は明かではないそうです。
聖書ではショールが三度出てきていて、エゼキエル16:4は、
臍(=へそ)の意味で確定しているので、「臍」と訳されはしているけれども
ここでは、「オンナの陰門を指す婉曲表現」であろうとフランシスコ会訳注は推定しています。
福音派は、臍と断定して、身体の中心部と解釈しています。

フランシスコ会訳注の推定に従うと
あそこに愛液をしたたらせているということになりますが、まじだとすると
エロティックですね

花嫁の兄たちは
8:8わたしたちに小さい妹がある、まだ乳ぶさがない。
と言っているわけです。
まだ未熟だ。結婚するには早いと。

しかし花嫁本人は
8:10わたしは城壁、わたしの乳ぶさは、やぐらのようでありました。
私は城壁のように貞操を守っている処女であり
おっぱいもやぐらのように大きくなって成熟しています。
結婚する時です、と言ってます。

兄たちはAカップだから、結婚はまだ早いと思っているのですが
本人は、Fカップよーんと言って結婚しようとしているわけです
女性の成長は早いと言う事ですね
157atheist
垢版 |
2022/09/11(日) 05:49:59.96ID:ZDq5L78k
>>156
想像するにそのショールという単語は例えば「へこみ」くらいの意味で
エゼキエルではそれを臍の意味で使用していたのかもしれませんね

それが雅歌では女性の陰部の婉曲表現として用いられたのかもしれません
雅歌の文脈で臍と解するのは「混ぜたぶどう酒を欠くことのない」という箇所が
意味不明になってしまって、あまり説得力がありませんからね

おっぱいのところは兄たちと妹のやりとりが可愛いですね
「お兄ちゃんたちは私のことまだ子どもだと思ってるけど
もう私だって立派な大人の女なんだから!」ってことなんでしょう

さて休日分は列王記で、ダビデのソロモンに対する遺言と、その後のソロモンの知恵のエピソードですね

ソロモンが神に財産や長寿を求めずに民を公正に裁く知恵を求めたこと、その知恵が
適用された具体例が3章の内容になってますが、なんといってもその具体例である
ソロモンの「大岡裁き」が有名です

我々がよく知っている大岡裁きはおそらくはこの列王記のエピソードが時代や文化の違いを経て
伝わってきたものだと思いますが、元のエピソードではソロモンが子どもを半分に切り裂け、と
かなりえげつない命令を下します
もちろんソロモンははそんな気はさらさらなく、ふたりの女性の反応を見るための命令なのですが
この点は子どもを両方から引っ張る大岡裁きのほうがスマートなエピソードになってますね

いずれにせよ、我執よりも子の身を案ずる母親の情を巧みに利用した裁きということで
よくできたエピソードだと思います
158福音伝道
垢版 |
2022/09/11(日) 06:36:22.05ID:jE0wB535
>>157
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はガラテア1章です。

大岡裁きのプロタイプがソロモンの智恵というのは驚かされます。
159atheist
垢版 |
2022/09/12(月) 01:26:42.33ID:pH7/gyVl
>>158
またパウロに戻るんですね
ガラテアはローマと並んで、パウロの神学的記述が目立つ手紙だったと記憶してます
ガラテアの教会は小アジアなので、異教からの改宗者が多い教会ですよね?
ローマほど分量が多いわけではないので、なんとか乗り切りたいと思いますw
160福音伝道
垢版 |
2022/09/12(月) 06:00:16.44ID:CgUboBU4
>>159
ガラテア人は、新参者のケルト人移民の子孫でまだ十分にギリシャ文化に
馴染んでなかったので、パウロス大先生はいつもにもまして威張り腐っています。
彼はマゲトニアに行く途中に熱中症で倒れ、避暑目的で小アジアのガラティア高原に
滞在し布教もしたのですが、ガラテア人たちは、ユダヤ教あるいはユダヤ教的キリスト教の
伝道も受けて割礼が必要ではないかと思い始めたので
パウロス大先生がお叱りになっているという手紙です
神学的には「信による義」が説かれ、ローマと並んで重要文書です
161atheist
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2022/09/13(火) 01:07:36.90ID:oAY9d25z
>>160
1章はまず挨拶から始まってますが、6節で早くもパウロから受けた福音とは異なる福音に
ガラテアの教会員が染まりつつあることを危惧しています
というか7-9節で本音がはっきりと書かれています

要は自分が伝えた福音と異なる福音を述べ伝えた者は呪われよ、という激しい怒りです

後半は他でも語られていたパウロのこれまでの経緯が語られています

1-4節は挨拶の一部ですが、1節ではキリストの復活は父である神によるものであること、
4節では贖罪論(刑罰代償論)といった具合にパウロの神学が端的に語られています

神学絡みでは11-12節が気になりました
ここでははっきりと、イエスと人間(この世の人)を区別しています
1節ではイエスと父の人格を明確に区別しているので
パウロにも三位一体の萌芽のような考えがあったということでしょうか?

根っからのパリサイ派であったパウロにとってイエスを「神」と言い切ることにはためらいがあるように
見受けられます
さりとて単に神に選ばれたメシアというようなユダヤ教の伝統の中で語られるメシアとも違って
非人間的存在としてキリストを捉えているようです
これはパウロが人間としてのイエスに直接教えを受けたのではなく
例の超自然的な回心体験によってキリストを信じたためだと思いますが
パウロはキリストをどのような存在として認識していたのでしょうか?
162福音伝道
垢版 |
2022/09/13(火) 05:51:59.13ID:mCMFDq1+
>>161
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はガラティア2章です

イエースースと人間を区別しているのではなくて、
パウロス大先生が啓示を受けたクリストスは生身のクリストスではなくて、
パウロス大先生の幻に出て来たクリストスだから、人間から聞いたわけ
ではないと偉そうなのです

三位一体はありません。

パウロス大先生にとって神は父なる神、唯一でしょう
163atheist
垢版 |
2022/09/14(水) 03:10:54.16ID:u0lpHf4u
>>162
パウロに三位一体論の萌芽のような考えがなかったとすれば
いったいパウロはキリストをどのような存在として捉えていたかが私の疑問なんですが
復活した上に天に登って神の右手に座するほどの存在、人類の罪を肩代わりして
死を滅ぼすほどの存在、というのは、人間でも天使でも神でもないとすれば
いったいどんな存在と言えるのか

もしかしたらこういった存在類型には当てはまらないものなのか、あるいはぶっちゃけ、パウロは
そこまで深くキリスト論を突き詰めていなかったのか、どうなんでしょうね

さて2章ですが、前半はパウロたちがエルサレムに行き、そこで重鎮たちに「無割礼者への使徒」と
認められた、という内容になってますが、4節でパウロらの福音と異なる福音を伝える者を
「にせ兄弟」と口を極めて非難しています
この「にせ兄弟」は文脈的には異邦人にも割礼を強いる「ユダヤ派」のことでしょうか?

中盤はユダヤ派(割礼派)に日和るペテロを非難する文章が続き、後半の神学的に重要な箇所へと
入っていきます

16節の「キリスト・イエスを信じる信仰」に関して、もう何年も前にりんごさんに
ここは「キリスト・イエスの信仰」とも読めるらしいが、どちらだと思うか、と質問したことがあります
結局回答はもらえず、そのままになっている箇所です

NETはここを"the faithfullness of Jesus Christ"と訳し、訳注で
"Or 'faith in Jesus Christ.' としています
さらに原文は省きますが、「この箇所の(訳の)決定は難しく、伝統的にはイエス・キリストへの信仰と
訳されてきたが、パウロにおけるpistis Christouや同様のフレーズを主格的属格と解する新約学者が
増えている。これらの学者の主張で注目すべきことは、pistisが人称的属格を取るときにはほぼ決して
対格的属格にはならないということだ」といった主旨のことを述べています

わたしがこの説を初めて知ったのはRichard Haysという学者からですが、ギリシャ語の文法的釈義は
ともかく、内容的には非常に新鮮で、以来信仰義認を述べるパウロの箇所もこれを念頭に置いています
先生はこの箇所をどのように考えていますか?上記のパウロのキリスト論とも絡んできそうで興味深いです
164福音伝道
垢版 |
2022/09/14(水) 06:55:58.32ID:x9KeLpil
>>163
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はガラティア3章です。

パウロス大先生は、救済論において、救世主=クリストスとして、
天使を超える神に次ぐ存在として認識されていたのでは?
そこのキーは、十字架という贖罪論です。

「にせ兄弟」は、クリスチャンになりたいのであれば、割礼を受けなさいという
普通のユダヤ人のことですね。ユダヤ派というか、唯一神との契約関係に入る
入信儀式が割礼なので、当然の要求です。
割礼をしなければ、唯一神を信じない罪人である異邦人のままなのです。

2:16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。

16節の「キリスト・イエスを信じる信仰」の原文は
「ディア ピステオース イエース― クリストオー」です。
直訳すれば「イエース―ス・クリストスの信仰によって」です。

さてピスティスは「神のピスティス」という表現をパウロはしていて
この場合は「信仰」と訳されず「真実」とか「信実」とかと訳されています。
元々ピスティスは銀行用語で、「信用するに価する」という意味です。
金を貸してもちゃんと返してくれるほど借り手が誠実で信頼できるということですね
それを人については「信仰」と訳すわけですが
神やクリストス相手の場合は「信仰」では困る事になるのですね
165福音伝道
垢版 |
2022/09/14(水) 07:05:32.20ID:x9KeLpil
文法的には主格的属格です。

口語訳など伝統的に対格的に訳しているが間違いです。

ただ主格的属格な上に省略表現です。
パウロス大先生が言っている
「イエース―ス・クリストスの信仰」とは
「神がイエースース・クリストスを通して示した信実」です。

人の義とされるのは律法の行いによるのではなく
「神がクリストスを通して示した信実」によってです。
と私は理解しています
166福音伝道
垢版 |
2022/09/14(水) 07:44:36.91ID:x9KeLpil
もう少し大胆な事を言えば
1.神の信仰があり
2.イエースース・クリストスの信仰となり
3.その神の信仰がイエースースの信仰を経て
 我々の信仰となるがゆえに
信仰によって義とされ救われると
私は理解しています
167福音伝道
垢版 |
2022/09/15(木) 05:24:00.18ID:eGcVjNi5
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はガラティア5章です

忙しいときは無理されないでください。睡眠を優先で。
168atheist
垢版 |
2022/09/15(木) 05:29:24.87ID:BRP97hW0
>>164-166
すみません、寝てしまいましたw

幼稚な言い方ですが、天使以上神未満、みたいな感じですかね
パウロのキリスト論はもうしばらく考えてみたいと思います

16節に関しては、先生も文法的には主格的属格という判断ですね
内容的な解釈としては、なかなかおもしろい視点だと思います
わたしはNETの訳に近い解釈で、十字架に至るまでのイエスの神への忠実さ、
そのイエスを内住させたクリスチャンの同様の神(あるいはキリスト)への忠実さ(信仰)、のようなもの
ではないかと考えているところです
英語のfaithのほうがおそらくギリシャ語のpistisの意味範囲に近いように感じます
日本語で信仰と言ってしまうと、全幅の信頼とか忠実さというニュアンスがどうしても抜け落ちてしまう
ような気がします
日本語だと端的に「信」と言ったほうが近いのかもしれませんね

先生の解釈はそのさらに上である神自身の「信(信用に値する価値)」を起点に、
それに忠実なイエスの信、そしてそれを受けたクリスチャンの信といった感じになるのでしょうか
いずれにしても主格的属格という文法的解釈を受け入れることで
今まで単にクリスチャンの側の信仰であったものが、神-イエス-クリスチャンと連なる
一体性のある信の構造が見えてくるような気がします

さて3章ですが、ここは全面的に律法と信仰を対比的に論じている箇所ですね
律法は信仰が現れるまでの養育係であり、パウロはここで律法の時代は終わった、と
宣言しているように見えます
割礼派に対抗する形で律法用済み宣言をしているように見えます

ここでの疑問は19-20節の「仲介者」です
19節を読むと仲介者はモーセを指しているように読めますが20節ではイエスを指しているようにも読めます
この仲介者は誰を指し示しているのでしょうか?
169福音伝道
垢版 |
2022/09/15(木) 07:07:17.13ID:eGcVjNi5
>>168
おはようございます。漫画的に言いますと
私は子供のころ、天に宝を積もうとして善行にせいを出していました。
お年寄りに席を譲る。買い物などのお使いを積極的にする。
こづかいを節約して教会に献金する。時には5kmを歩きバス代を浮かして
日曜の席上献金の額を増やす。パン代を節約し献金するなどに喜びを感じてました。
で、その善行が1ポイントだとしますと、一日10P稼げば、
年に3650P 100年で365000Pとなるわけですが、天国に行くためには1兆Pいるかもなのです。
そこで神は、1兆Pの約束手形をクリストスの十字架を通して発行した。
この 1兆Pの約束手形が「神のピスティス」「イエースース・クリストスのピスティス」であると
私は考えています。信用できる約束手形なので、我々もそれをピスティスできるという流れ。

つまり、我々の信仰は、神の信(信用に値する)ことが、根拠である、と。
もっと言えば、神の信仰が、我々の信仰となって下さっているのであって
決して我々が能動的に、自力で信仰しているわけではないと。考えているわけです
170福音伝道
垢版 |
2022/09/15(木) 07:25:24.35ID:eGcVjNi5
>>168
atheistくん、おはようございます。
失礼しました。本日の聖句はガラティア4章でした。

19節 20節はなかなかやっかいです。
ユダヤ教の常識では、仲介者はモーセです。
19節の仲介者は単数、天使たちは複数なので、19節はモーセと読めるしそれでいいと思います。
「天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。」
→神が直接モーセに与えたのではなくて、天使たちがモーセに与えた。と言っている

しかし20節の仲介者は一者ではないとあります。
20節は意味不明で有名な箇所です。
で、この箇所については400の解釈があると言われているそうです。
代表的な解釈では、律法を伝える天使たちが大勢いるのだから
我々の知る律法はモーセを経たひとつではあるが、実はモーセの律法は絶対的な
律法ではなくて、他にもいろいろな仲介者がいて、いろいろな律法があるという解釈。
まあ仏教の250戒とかもあるのは事実。

新共同訳は
「仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。
約束については、神はひとりで事を運ばれたのです。」
と訳していますが、これは別の解釈を反映しています。
仲介者はあちら側とこちら側を仲介するのだから、一方にだけ依存している
わけではないという解釈です。
2022/09/15(木) 09:47:54.48ID:48XRDIvU
テスト
172atheist
垢版 |
2022/09/16(金) 02:54:56.00ID:bdmxEUwH
>>169-170
なるほど、とてもわかりやすいです
律法の下、不完全な我々はいくら善行を積もうが1兆ポイントに達することはなく
かえって律法によって罪が明らかになるだけなのに対し
キリストの十字架を通して1兆ポイントの約束手形が発行された
この信用するに値する約束手形というピスティスを我々も全幅の信頼でもって信用(ピスティス)する
ことによって救いに預かれるのだ、まさに神のピスティスがキリストを通じて我々のピスティスになるので
あって、このことは「キリストへのピスティス」という対格的属格ではなく「キリストのピスティス」という
主格的属格で明確に表現されている、ということになりますね

「仲介者」に関しては、19節はモーセとみなしてよいが、20節はよく分からない、ということですね
解釈が400もあるということはもはや素人では手に負えないということなので、ひとまず塩漬けにしますw

さて4章ですが、前半は「神々の奴隷になっていた」、「もろもろの霊力に逆戻りして」といった
文言から察せられる通り、元異教徒であったガラテアの人たちに呼びかけているようなのですが、
後半からは「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ」と呼びかけているので、ユダヤ派というか
割礼派というかともかく律法重視の使徒(教師)に影響されたガラテアの人々への呼びかけに
変わってしまっています
この辺の推移はよく分かりません

内容的に重要なのは後半で、女奴隷から生まれた子(イシュマエル=奴隷の子)と自由の女から
生まれた子(イサク=自由の子、約束の子)といった対比を、今のエルサレムの教会人と
パウロに従うクリスチャンの対比に当てはめ、女奴隷とその子を排除せよと述べているところだと思います

当時、自身が真実と信じていた福音を伝える熱情に燃えていたパウロにとっては
このような苛烈な二極化、真理と非真理、霊と肉を分け隔てる言説は致し方がなかったのかもしれませんが
こういったパウロの言葉が、歴史的なキリスト教の排他性に影を落としているのは
否めないような気がします
173福音伝道
垢版 |
2022/09/16(金) 06:27:08.95ID:7wkK8UPk
>>172
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はガラティア5章です。

がラティア人はかつて異教徒だったので古い習慣である
「日や月や季節や年などを守っている」ので、パウロス大先生があきれている。
21節は皮肉ですね。「律法の下にとどまっていたいと思う人たち」は
パウロを否定するユダヤ主義者に影響を受けた者に対して
パウロス大先生が、聖書に従うなら、これこれですよと教養を示して
律法の奴隷になってしまったら救われませんよ。
律法の奴隷になれという者たちに耳を貸すなと主張しているわけです
2022/09/16(金) 09:43:24.51ID:1YshTRIJ
テスト
175atheist
垢版 |
2022/09/17(土) 02:57:14.31ID:ecfCevgT
>>173
ガラテアの教会人が改宗した後もかつての古い異教の習慣を守っていることに対して
パウロは呆れ、かつ彼らがユダヤ主義者に影響されていることに対して叱責してるってことですね
これならつながりが分かります

さて5章ですが、ここでは冒頭パウロは、はっきりと「割礼かキリストか」の選択を迫っています
ただ6節では割礼はあってもなくても問題ではないと言っているので、この選択は割礼をしなければ
救いに入ることはできないと考えている律法原理主義者に対する選択なのでしょう

後半は割礼そのものから肉の働きと御霊の実へと話題の中心を移し、その結果を具体的に列挙しています
ここはよく引用される有名な箇所ですね

今回気になったのは、まず6節の「愛によって働く信仰」です
パウロはコリントで「愛がなければ信仰は虚しい」と言っています
パウロはとかく行為義認と信仰義認の文脈で話題にされますが
コリントでもここでも分かるように、信仰の根底に愛を置いているようです

パウロの手紙を読んでいると、どうしてもその難解な神学的言説や割礼派に対する容赦のない批判に
目を奪われがちになりますが、こういった箇所にこそパウロの真価があるのだと思います

もうひとつ気になったのは14節の律法の全体は隣人愛に尽きる、と言っている箇所です
ここはまさにイエスが述べた律法の要約と見事にシンクロしています
もちろんパウロは「だから律法を遵守せよ」と言っているわけではなく
ここでは律法の精神の核に隣人愛を見ているわけで、割礼のようなしるしによる救いを批判する点では
変わりはありません

18節にあるように、御霊に導かれるなら律法の下にはないが、23節にあるように
御霊の実を否定する律法はないのですから、パウロは律法そのものの精神的内実を否定しているのでは
なく、律法を救いの必要条件とするような律法原理主義者、あるいは割礼のようなしるしに拘る
形骸的律法主義者を批判している、ということになると思います
2022/09/17(土) 12:30:36.56ID:3LbqL2Ct
テスト
177福音伝道
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2022/09/17(土) 16:35:52.44ID:RPXb+J04
>>175
atheistくん こんにちは。本日と明日の聖句は1列王記6-8章です。

6節の「愛によって働く信仰」の意味は、
神が神寧を愛し、ひとり子イエースースを遣わしことによって
働いている信という意味です。
カトリックに影響にされた新共同訳は、逆にして
「愛の実践を伴う信仰」と訳しています。
信仰を持ったら、愛の実践をしないとあきませんよという説教に。
2022/09/17(土) 21:50:06.73ID:cKUBiPuO
テスト
179atheist
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2022/09/18(日) 00:00:33.16ID:vFkgFjsq
>>177
6節の愛は神の愛ということですね
新共同訳では「働く」の取り方が信仰ではなく、愛の「実践」という形で置き換わっているようですね

さて列王記の箇所ですが、ソロモンが神殿と宮殿を建て、主に祈りを捧げる箇所ですね
建築の詳細はテキトーに読み飛ばしましたw

注意を引いたのは8章の契約の箱をソロモンの運びいれば後のソロモンの祈りです
非常に素朴な祈りですが、46節に「人は罪を犯さない者はいない」とあるとおり、
ユダヤ教においてもしっかりと人間の不完全さが意識されています
そして罪に気づき悔い改めたらその祈りを聞いてくれ、と続きます
素朴な形ですが、ここにユダヤ教からキリスト教を貫く罪と悔い改めの祈りの雛形が
現れているように思いました
180福音伝道
垢版 |
2022/09/18(日) 08:48:12.74ID:a9aD0qvO
>>179
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はガラティア6章です。

確かにソロモンの祈りは、悔い改めの祈りですね
2022/09/18(日) 13:07:31.23ID:0fZkyQsy
テスト
2022/09/18(日) 14:40:44.60ID:tmEr5bXn
テスト
183atheist
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2022/09/18(日) 20:43:09.10ID:vFkgFjsq
>>180
現在台風は九州直撃中だと思いますが大丈夫ですか?
過去最大規模っぽいのでくれぐれもお気をつけください
184福音伝道
垢版 |
2022/09/19(月) 08:13:00.99ID:NZJlCzvZ
>>183
atheistくん、おはようございます。ご心配ありがとうございます。
本日の聖句はガラティア6章です。

TV報道が煽りくるので心配していましたが
幸い家の方は無事です。フェンスが壊れた程度です。
185atheist
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2022/09/19(月) 23:28:01.78ID:Tt6FiCi/
>>184
ご無事でなりよりです
それでもフェンスはやられちゃったんですねw

さてガラテアもいつの間にか最終回になりました

最終章では特に奢りや見栄について注意を促しています
14節のキリストの十字架以外に誇るものがあってはならない、というのがその要約かと思います

今回気になったのは7節から10節あたりの善行のすすめの部分です
善行を勧めること自体はこれまでのパウロでもありましたが
ここでは善因善果、悪因悪果と思われるような因果を説いています
特に注意を引くのは、この流れの中で8節の「霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。」と
いう箇所です

ここだけ見るとまるで行為義認のように見えますが、これまでのパウロの主張との整合性を考えると
パウロは律法と信仰は鋭く対立させますが、信仰と行為は対立ではなく随伴関係にあると考えているように
見えます

13節にあるように自分を誇るための割礼といった形骸化した行為に対しては鋭く批判しますが
信仰の実となるような行為はまさに信仰の現れとして考えているため8節のような言葉が出てくるのだと
思いました

疑問に思った箇所は16節の「神のイスラエルの上にあるように。」という祈りの部分です
手紙の相手はガラテアの教会のひとであるのに、そして割礼のあるなしを問わないと言ってきたのに
なぜここで特にイスラエルを取り上げて祈っているのでしょうか?
186福音伝道
垢版 |
2022/09/20(火) 05:20:54.62ID:DCCbm4mw
>>185
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ1-2章です

16節の「この法則に従って進む人々」は、つまりキリスト教徒のことですが、
パウロス大先生は、キリスト教徒に「平和とあわれみとがあるように」ち祈ります。
そして、
「神のイスラエル」、つまり割礼の奴隷となっているユダヤ人にも
「平和とあわれみとがあるように」と付け加えたのです。

教会は、ここをごまかしたくて、
前者をがラティアのキリスト教徒、後者をキリスト教会全体などと解釈したりします
あるいは、前者と後者を同じものである、キリスト教徒であると解釈します

さて、なぜか。
パウロス大先生はごりごりのユダヤ主義者だからです。
まず救われるのはキリスト教徒ですが
救われる本流は、ユダヤ人なのです。神から決して見捨てられることのない
特別な民族という思いが根っこにあるので、付け加えてしまった。
民族愛というか、思い上がりが最後にポロっと出てしまったのです
187atheist
垢版 |
2022/09/21(水) 01:49:10.54ID:bZUmZW68
>>186
イスラエルをキリスト教徒や教会全体の象徴とするのは
明らかに唐突で無理やりな解釈に思えますね
わたしもここはそのままイスラエル(ユダヤ民族)を指していると思いましたが
なんでいきなり、という感じで違和感がありました
ここもまたパウロの本音が出てしまったんだろうということですね

さて今日からはイザヤ書ということですが、また重たい書なのに2章ずつですか…
なんとか頑張ってみたいと思います

さてまずは1章ですが、もうユダヤ(ユダ王国)のことをボロクソにこき下ろしてますね
この章で感じたのは、神が極めて感情豊かに「人間味のある」語り方をしている、ということです
もちろんイザヤの口を通してなので、神のことばとはいえ、多少なりともイザヤ本人の感情が
入っているということにはなるんでしょうが、実に人間的な語り方になっていると思いました

この章での質問は8節に関するものです
「シオンの娘」が「ただひとり残った」ということは、ユダ王国も外国人に蹂躙され
ただエルサレムだけがなんとか耐え残ったように読めます
これは実際いつのことを指しているのでしょうか?

2章は打って変わって終末予言になってますね
この章ではなんといっても4節の美しい表現が目に付きます
「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。」
まさに人類の理想の姿と言ってもいいものだと思います

ここで気になったのは9節です
「どうか彼らをおゆるしになられるように」と来るかと思ったら
「おゆるしにならぬように」と来ましたw
どうもキリスト教の祈りモードが頭にあったらしく、罪人の赦しの流れで読んでしまいましたが
ユダヤ教の神様は当時の厳しい民族情勢を反映して、バンバン人殺しますからねw
188福音伝道
垢版 |
2022/09/21(水) 06:03:44.10ID:Uo8SQC3y
>>187
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ3-4章です

8節、フランシスコ会訳注によりますと、
BC701年、アッシリアのセンナケブリ王による攻撃の蓋然性が高いそうです。

ハーパー注解もBC701年のアッシリアによるエルサレム包囲と断定しています。
モチーフとして、元々は油塗られた王のみが神の子とされていたのに
神はイスラエルの民全体を神とした。にもかかわらずイスラエルの民は何も知らない。
まったく知らないという態度であったので、他国の侵略受けた。
しかしシオンは神の住所であり、聖なる山なので最終的には敵の手に落ちない。
「シオンの不可侵性
189福音伝道
垢版 |
2022/09/21(水) 06:14:08.49ID:Uo8SQC3y
「シオンの不可侵性」への信仰が語られているそうです。
これは北王国捕囚後のBC7Cのヨシアの治世に由来するそうです。

2章6節以下には「主の審判」というタイトルがつけられています。
偶像崇拝をしている敵国が神の介入によって滅ぼされますようにという
古代人的な祈りというか呪いですね
190atheist
垢版 |
2022/09/22(木) 02:41:58.38ID:Ulnbbxaj
>>188-189
ということは北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、さらにユダ王国に攻め入ったときの
話ということですね
それで落ちなかったエルサレムが後のヨシア王の頃に「シオンの不可侵性」という形で
神話化されていった、という感じですね

さて3章は1章の続きという感じで、ユダ王国の荒廃が語られていますが
12節の「女たちに治められる」、17節の「シオンの娘らの頭を撃って」という表現に見られるように
女性が治めることが国の荒廃や崩壊の表現として喩えられているように思います
これも古代ユダヤ的な価値観に基づいているのかもしれません

ここで気になったのは21節の「鼻輪」ですw
古代ユダヤにおいても耳輪や腕輪だけでなく鼻輪も装飾のひとつだったんだなあ、と

4章はこれまた2章とよく似ていて終末について語られているようです
1-2章、3-4章は「絶望と希望」というセットで語られているように感じました

ここでの質問は1節目の「ひとりの男」です
2節目の内容から、ある種のメシアのように感じましたが、この「ひとりの男」とは何を指しているのでしょうか?
191福音伝道
垢版 |
2022/09/22(木) 06:29:10.52ID:w9xMzITj
>>190
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ5-6章です

12節は、マソラ本の読みですね。フランシスコ会訳は、「高利貸し」と解釈しています。
子音は「女たち」「高利貸し」もいっしょで、どう母音を補うかで解釈が分かれるようです

17節 フランシスコ会訳は
「シオンの娘たちの頭の頂きをかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる」と訳しています。
かさぶたは皮膚病、前髪を落されるのは当時の女性としては恥ずかしいことだったそうです。
テーマは「高慢」で、ぜいたくな生活を促進する女性たちの高慢を神が打たれるということのようです

ひとりの男「イーシュ・エハード」は、2節枝「ツェマハ」と対応していますが、様々な解釈があるそうです。
福音派はずばり、メシアと膾炙します。ツェマハはメシアの称号の一つとされるからです。
タルグムはダビデの子孫である救い主(メシア)と解釈していますが
メシア時代に美しさと栄光を回復するべく残された民という解釈もあるそうです。
以下の文章とは後者がつながります
192atheist
垢版 |
2022/09/22(木) 22:40:28.22ID:Ulnbbxaj
>>191
そういえばヘブライ語は基本的に子音字だけで母音記号はマソラ本文での解釈になるんでしたね
母音の補い方で変わってしまうことがあるので、ただでさえよく分からない文章が
さらに意味不明になることもおおいんでしょうね

現代ヘブライ語で書かれた新聞なども母音記号はないと聞いたことがあります
慣れれば読めるらしいですが

17節はぜいたくな生活をする女性たちの高慢を批判しているってことですね
「ひとりの男」はメシアと解釈されることが多いものの、やはり解釈は定まっていないみたいですね

さて5章は神や預言者のことばを侮った奢れるイスラエルの民に、神が容赦なく責め苦を与える、と
いった内容のようです

特に26節以降はおそらくはアッシリアや新バビロニアのことを言ってるんでしょうが
このへんはもうヘブライ語聖書ではおなじみの、神から離反したイスラエルの民が
神が送った外国人によって懲らしめられる、ってパターンですね
ユダヤ教は民族的苦難の原因を民の神からの離反に求め、その苦難によって悔い改める、と言うかたちで
罪と悔い改めのループを繰り返しているように見えます

6章はイザヤが神に預言者として召命される場面ですね
気になったのは召命時、イザヤは神殿の中にいたらしいことです
イザヤは神官だったのでしょうか?

この章で注目したのは9節以下の神の命令です
要は民が悟らないようにせよ、悔い改めないようにせよ、という命令ですが
このパターンは創世記だか出エジプト記だかのパロでも出てきたと思います
神がわざわざ人の心を頑なにしてしまうやつです

これは事後的なこじつけなのでしょうが、いくら懲罰のためとはいえ、神が敢えて民の悔い改めを
阻止したうえで、罰するという自作自演に思えて仕方がありません
こんなんでユダヤの民は納得するんでしょうかね
193福音伝道
垢版 |
2022/09/23(金) 09:55:57.76ID:VmYGHp0T
>>192
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ7-8章です。

新教出版社の『新共同訳 聖書辞典』によると6:1をもって、
「神殿で召命を受けたので祭司であったとも言われる」という微妙な表現に
なっているので、保守派は祭司と考えるが、学術的には支持されていないということかもです。
確実なのは中流貴族であったことです。

神殿にいたのは王ではなくて、主なる神です。
イザヤは、主なる神が王座におられるのを目撃してしまった。
そしてそれに気づくと5節で、見てはならぬものをみたので
自分の破滅を悟ったわけです。
このことからイザヤは幻覚を見たことがわかります。
神官というより中流貴族が神殿で神秘体験をしたという話ですね

罪を告白するとセラフィムが来て、赤く焼けた炭で罪を焼き払い
罪があがなわれたと宣言があります。そして派遣の立候補をイザヤがするわけです

すると問題の9節です。この派遣は、民を救うための派遣ではなく、
神のメッセージを伝えるのですが
「民の心をかたくなにする」ための派遣だったのです。

これは神が9/10を滅ぼし、残った1/10も焼き尽くすための派遣だったのです。
ただ最後の1/10が焼き尽くされた後に、ひこばえ(新芽)すくわれるためですね

この新芽とは捕囚から戻ってくる者たちのことなので、「事後的なこじつけ」ですが
捕囚後に、拝一神教から唯一神教に転換しましたのでユダヤ的には説得力がある話だと思います
2022/09/23(金) 12:17:02.09ID:+81FS9lW
テスト
195atheist
垢版 |
2022/09/24(土) 02:12:59.35ID:T9z2wgQ1
>>193
単純に神殿には神官でもなければそうそう簡単には入れないだろうということで
神官だったのかもしれないと想像しましたが、そうとも限らないということですね
イザヤの場合、神殿において見神というか、ある種の神秘体験をして
預言者となっていったって感じですね

民の心を頑なにした理由は、捕囚の経験をなぞってるわけですね
捕囚の経験をユダヤ教の文脈で解釈すれば、多くの民がユダの地を追われ
囚われの身になったのは神に背いたからであり、ヤハウェに忠実なごく一部のみが
救われる、という急進的な唯一神教が、捕囚の経験に神学的合理性を与えた

そして神に従わない民を神の全権の下で解釈すると、単に民が神から離反したというよりも
神が民を頑なにした、と考えたほうが唯一神としての絶対的な神の力をよく表していると
感じられたのかもしれませんね

さて7章ですが、スリヤの王がエフライムと組んでユダに攻め上ろうとしている、という場面設定から
イザヤのアハズに対する進言というか預言が語られますが、このスリヤというのは最初アッシリアのことか
と思いましたが、8節から今のシリアの地域のことであろうと思います
エフライムは北イスラエル王国のことでしょうから、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされる前のことで
北イスラエルが異邦の国と組んでユダへ侵攻しようとしたということなのでしょう

このときのイザヤの預言は、それを恐れるな、ユダは滅ぼされることはないという神の言葉ですが
そのしるしとして、かの有名な14節の「おとめが身ごもって男の子を産む」ということばが語られます

この「おとめ」をめぐっては散々言われているように若い女くらいの意味で必ずしも処女を表すわけではない
のに、七十人訳でそれがパルテノス(処女)と訳されたことから、まさに処女懐胎の聖書的裏付けとして
しばしば引用されるところですね

8章はその続きで、スリヤ(ダマスコ)と北イスラエル(サマリヤ)がアッシリアに滅ぼされ
さらにはそれがユダにも及ぶ(8節)というような預言ですね
わからないのはその後の「その広げた翼」がインマヌエルの翼なのかアッシリアの翼なのかです
つまりはユダにとって、救いの翼のことなのか、滅びの翼のことなのか、どちらなのでしょうか?
196福音伝道
垢版 |
2022/09/24(土) 08:49:28.73ID:TZEQpCp1
>>195
atheistくん、おはようございます。本日と明日の聖句は1列王11:1-40

スリヤは、他の訳ではアラムと訳されてますので、ご推定のとおりシリア地域を
中心とした小国家群ですね。のちにはアッシリアに滅ぼされます。

原文のヘブライ語アルマーは乙女ですね。ギリシア語訳されたパルテノスにも「若い娘」を
意味する語ですね。もちろんパルテノスには「処女」の意味もありますが、原文には「処女」の意味ないですね

「その広げた翼」をユダに対する神の加護と考える者もいるが
この文脈においては、7節の大水の被害とともに外国の軍隊による侵略を表す表現と
フランシスコ会訳注は注記しています。外国はアッシリアのことで、BC701だそうです
197atheist
垢版 |
2022/09/25(日) 01:59:54.60ID:qMfvaKwR
>>196
ヘブライ語聖書の場合、そこで使われている語句の意味範囲を正確に推定できるような
聖書外的文献資料がほぼ存在しないので、新約聖書よりはるかに解釈が難しくなりますね
おまけにヘブライ語聖書は作成・編集過程が長期にわたっているので時代的な意味の変遷なども
あるでしょうから、本当に解釈は難しくなると思います

そういうわけで原語のアルマーに「処女」を含ませる意図があったと推定することも
できるのかもしれませんが、仮にその意図があったとすれば、処女懐妊というのは
異常なことですから、おそらくもっとそれを強調するような表現や追加の文脈があったであろうと
想像します
それがないということは、やはりそういった意図はなかったのではないかと思います

「広げた翼」の部分は神のかごとも外国の侵略とも解釈されているのですね
インマヌエルが直近に出てくるので文脈を無視して受け取ればインマヌエルの翼のように
読めますが、文脈を考慮するとそれはやはり唐突な印象がありますので
わたしも外国の軍隊による侵略の意ではないかと思います

さて休日分はソロモンが外国の妻や妾に影響されて異教の神々に心を傾け、ヤハウェから離反して
いったという部分ですね

正直に言って、この箇所は完全に北イスラエルと南ユダの分裂(史実的には元から統一王国と
いったものはなく単にユダヤ民族のふたつの王国であったかもしれませんが)を宗教的に
解釈して編纂された箇所だと思います

5節や7節で見られる「憎むべき」という異教の神に対する形容などに端的に伺われるように
ユダヤ教保守派による「歴史」記述ということなのでしょう

ヘブライ語聖書はものすごく単純化して言うと、ヤハウェとユダヤの民の契約にまつわる物語に
なってますが、現実のユダヤの民は他の民と同様、必ずしもひとつの神に中心化された宗教を
奉じ続けたわけではなく諸々の歴史的変遷があったはずだと思います
それを保守派の観点から解釈すれば、ヤハウェに対する忠信と離反を軸として
歴史を説明するということになるのでしょうね
198福音伝道
垢版 |
2022/09/25(日) 07:34:03.23ID:/zH6gPRH
>>197
atheistくん、おはようございます。明日の聖句はイザヤ9-10章です。

ソロモンの千人の妻というのは伝説で申命記史家は、わざと好色に描いているが
実際は、近隣諸国の女性と婚姻関係を持ったのは平和外交的動機であると
ハーパー注解は解説しています。

聖書は「ヤハウェに対する忠信と離反」から歴史を読み解いているわけですが
客観性的観点からはかなりずれているのかもです
199atheist
垢版 |
2022/09/25(日) 19:21:47.44ID:qMfvaKwR
>>198
聖書はそもそも客観的な視点からユダヤ民族の歴史を記録しようとして編まれたものではないですからね
人の営みを宗教的な観点から読み解き、記録し、教訓とするように編まれているわけですから
わたしも聖書を単に史実に即しているかどうかという視点のみで読もうとは思いません

それでも史実は史実、事実は事実として判断する視点は宗教的な洗脳を避けるために大切なこと
だと思います

そのうえで、宗教的な教えとしての要点はどこにあるのか、さらには自分にとって聖書は何を語っているのか
といった重層的な読み方をしていくことが大切になるんだろうと思います

例えば出エジプトという史実は史学的、考古学的にはほぼまったく確認されていません
しかし聖書に描かれた出エジプトには、解放者としての神、神との契約を忠実に守ること、
様々な苦難があっても神を(つまりは義と愛を)信頼し続けること、といった宗教的な教えが描かれています
また出エジプトからカナンへの入植の苦難の過程を自分ごととして追体験することによって
決然と選択すること、信念を貫くこと、感謝することなどの意義を
自分の人生と照らし合わせて考えてみるきっかけにもなります

ところで昨日はずっと都内にいたのですが、突然の激しい雷雨でたいへんな目に会いました
道路が水浸しになって、まるで川の中を歩いているようでしたし、なんとか駅に着いたら
今度は電車が止まっていて動きません
一時間待ってようやく電車に乗れたものの、ずぶ濡れの体に冷房は堪えますw

古代人の旅路はこんな生易しいものではありませんが、こんなときには自然に翻弄されざるを得なかった
古代人の経験とそこから導き出された神への祈りや信頼というものを少し理解できたような気になります
200福音伝道
垢版 |
2022/09/26(月) 05:56:28.83ID:tQoGmK2z
>>199
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ9-10章です。

そもそもモーセ一人に神が山で啓示したというのが怪しいですね
ただカトリックの神学者の和田幹夫氏によると
「出エジプトの出来事そのものを証明する文献ないし考古学的証拠はないが、
聖書が伝える出エジプトが考えられないということを示す証拠もなく、
かえってそれが十分起こりうる状況であったということができる。
前13世紀の前半から中頃にかけて出エジプトの出来事が起こったらしい。
ただし、出来事自体はこれを体験したもの以外のものにとって耳にするような特別な事件ではなかった」
とした上で、
エジプトにアジア地方(シリア・パレスチナ)出身の遊牧民がいて、労働を強いられていたことがあった。として
アメノフィス2世(前1438ー1412)の碑
 セティ1世(前1304ー1290)の碑:ベト・シェアン出土
 トトメス3世の武将によるヤッファ陥落の報告書
 ラメセス2世(前1290ー1224)の手紙
 ラメセス3世(前1198ー1166)がヘリオポリスのアテム神に捧げた贈物表
 ラムメス4世(前1166ー1159)の碑
を挙証されています
201atheist
垢版 |
2022/09/27(火) 02:21:38.49ID:RLIFZBXJ
>>200
わたしも数十人から数百人程度の小規模な「出エジプト」はあったかもしれないとは思います
しかし「聖書が伝える出エジプトが……かえってそれが十分起こりうる状況であったということができる」と
いうのは事実判断よりも護教を優先した発言だと思います

というのはエジプトの史料でイスラエルの名が初めて出てくるのは前1208年頃のメルエンプタハ碑で
しかもそれはカナンの地で殲滅した諸都市・諸民族のひとつとして描かれています
(これもイスラエルを指すのかどうか論争があるようですが大半の学者はイエスラエルと考えているようです)
よってそれ以前の碑文にはイスラエル民族と同定できるものはなかったことになります

また何よりも「聖書が伝える出エジプト」は成人男子だけで60万、妻子などを入れれば数百万になります
これに家畜等が加われば膨大な数の人畜の移動があったことになります
仮に人だけで200万人程度だとして、家財や家畜を含めてコンパクトに詰めても
ひとりにつき1平方メートルほどのスペースが必要だとすれば200万平方メートルにもなります
これは東京ドーム2個分が一斉に移動するようなもので、これだけの大規模な移動があれば
必ずその痕跡が残るはずですが、まったく見つかっていません
しかもこれだけ大規模な移動であればエジプトにそれに関する記録が残っていないほうが不自然です
実際にIsrael Finkelsteinという考古学者が数年かけて大規模調査をしていますが
そのような痕跡は一切見つかっていません
なので「聖書が伝える出エジプトが起こり得る状況」は、「ほとんどなかった」というほうが適切な判断である
ように思えます

すみません、話が脇に逸れてしまったので、イザヤ書に戻ります
9,10章は8章からの続きだと思いますが、ここで注目すべきは何よりも9章冒頭の
「異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた」という箇所です
そのまま読めばもろにイエス・キリストを指しているように読めます
先生はこの箇所を予型論的に読むのではなく、ヘブライ語聖書の枠内で読むとしたら
どのように解釈されますか?なぜガリラヤなのか、われわれのために生まれたひとりの男の子とは誰なのか?

この箇所以外はほとんどが主の怒りの記述で埋められています
(10章21節にあるように残った者が神に帰る、というのは描かれていますが)
それだけにこの9章冒頭は異彩を放っているように思えます
202福音伝道
垢版 |
2022/09/27(火) 06:21:35.39ID:bXRdIVE4
>>201
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ11-12章です

9:1しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。
さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、
後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。


BC734-732にアッシリア帝国のティグラト・ピレセル三世が、常備軍を設置し
近隣諸国を征服したのですが、北王国イスラエルも、ナフタリ、ガリラヤ、などを征服されました。
で、9:5で預言されるメシアによって開放されるというのが、ヘブライ語聖書のそのままの記述です。

ただ、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と四つの名前が挙げられているのですが
イスラエルにおいて王が即位する際に名前が与えられたそうですが、それは一つだそうです
エジプトでは複数で5つの名前が与えられたそうで、その影響が見られるようです。

解釈によると、この名前は神の名前であるという説もあるそうです。
その場合は「力ある神は驚くべき計画者」「永遠の父は平和の君」と二つづつセットにして二つの名と
読むそうです
203atheist
垢版 |
2022/09/28(水) 00:50:11.76ID:Wu7HvKfA
>>202
アッシリアの北イスラエル征服に際して、具体的な指示対象なくメシア待望論として書かれたもの
って感じですかね

6節の「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」はエジプトにおける王の呼称に
影響を受けた表現である可能性があるってことですね
たしかに「大能の神」や「とこしえの父」という呼称を考えると神を指しているという解釈もなりたつように思います

新約聖書では、この箇所を福音記者や初期のクリスチャンたちが
キリストとしてのイエスを予言した箇所と解釈するわけですが、そう解釈しても不自然ではないほど
キリスト教の視点から見ると「よくできている」と思います

イエス本人がイザヤ書のこの箇所を自分を指し示すものとして読んだかどうかは分かりませんが
わたしはイザヤ書の影響は単に福音記者や初期クリスチャンに対してだけでなく
イエスに対する影響もかなり大きかったんじゃないかという気がします

さて、11-12章ですが、比較的短くて助かりますw
この2章は7章や9章以上にクリスチャンにとってはまさにキリストを予言した箇所と感じられたことと思います

というよりも11章の1-2節はマタイやルカのイエスの系譜、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼時の描写に
そのまま反映されていると思いました
福音記者たちは、まさにこのイザヤ書に沿ってキリストの物語を語っていったのだと思います

印象的なのは6-8節の牧歌的な描写です
肉食獣と草食獣がともに平和に暮らし毒蛇すら赤子と戯れるようなイメージは
平和を希求したイザヤ書の記者が心から願い求めた未来像なのだと思います

逆に気になったのは14節です
カナンの地、あるいはその近隣に関しては、友好関係などではなくイスラエルによる征服を暗示しています
ということは(第一)イザヤ書の記者は漠然と世界平和を願ったのではなく
あくまでもイスラエルの平和を願ったように読めます
民族を超える射程を伺わせる第二(第三)イザヤに比して、第一イザヤはそこまでの射程はもっていなかったのでしょうか?
204福音伝道
垢版 |
2022/09/28(水) 06:39:36.84ID:orpvNmUU
>>203
atheistくん、おはようございます。本日の聖句はイザヤ13-14章です

11:1-9がメシアが登場し、人間と動物の自然秩序が劇的に転換され
征服者の比喩である肉食獣と被征服者の象徴である草食動物が共生する様が
描かれています。

そして10-16節で諸国に散らされている者たちが集められて
イスラエルが形成される様が描かれているわけですね
その際に10章で敵国であるアッシリアが裁かれたように
近隣諸国も神によって裁かれイスラエルに征服されるのですね

「アンモンの人々をおのれに従わせる。」
実際、アンモン人は
ダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収されています
これの預言ですね
2022/09/28(水) 08:33:45.09ID:vo/w2hCy
30万コースなんかー
やっぱ
いそうでいない配信者は喜んでくれるよ
2022/09/28(水) 08:33:47.65ID:vo/w2hCy
上場廃止してから盟主とか幹部に一切愛着とか無かったからな
乗用車ギリギリまで見られ放題か?
2022/09/28(水) 08:33:47.71ID:9ceaW59j
毎日同じやつがおらんから題材にならんだけ壺議員よりはおじいさんの趣味やらせてる我々は未来に投資するのは評価する37.3% 評価しない66.2%
ネットプロ-35%だよ
社会不適合者の皆様にもなれないのか〜い!!
追い打ちでレコ車も殺してよくない?
2022/09/28(水) 08:33:49.39ID:9ceaW59j
正直
もともとがまかりとおる訳ないんだが
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