>>132
「大使徒」でもそれなりに皮肉は感じられますが「お偉い使徒」等のほうが
ダイレクトに皮肉が感じ取れますね

「にせ使徒」もその「大使徒」のことなんですね
もうこのころからキリスト教内では正統と異端の熾烈なせめぎ合いがあったのだろうということが
察せられます

23節以下は、信仰や伝道にまつわる受苦が、キリストとの一体化を示すものとして
ある意味で信仰の真実を推し量る尺度のようなものになっていたということなのかもしれません

さて12章ですが、ここでも前章の「大使徒」との比較を引きずりつつ、パウロ特有の逆説的な
言い回し(9節、10節など)で、自分の正当性を切々と訴えかけているように感じました

14節に「わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。」とありますから
すでに二度コリントには赴いていて、三度目の来訪に備えてこの手紙を書いているということが
わかります

16節に暗示されているように、おそらくコリント教会やそこを訪れた他の使徒などから
パウロはコリント教会から寄付を集めそれを私用に供したかのような噂が流れていたことが
伺いしれます

この手紙が終始、弁明口調になっているのはこういった背景があるからなのだろうと感じます