>>135
あ、そういえば第三の天についても聞こうと思ってたのに忘れてましたw
少なくとも古代人にとっては「天」というのは精神的な領域というより実在する物理的な領域だったんですね
以前復活体について議論した際に調べた時も、古代人にとっての天は
現代人が考えるような霊的精神的な存在であるというよりも確固とした物理的実在性をもったものという
結論でした

エルサレム教会への献金は依頼されたものではなくて、パウロが自主的に要求していたんですね
そうだとすると疑われることがあったのはよく分かります

さて休日分ですが、使徒がタビタを復活させたペテロの話、ヤコブはしばしば信仰義認に関して
取り上げられる、行いを強調した箇所ですね

ふたつの関連はよく分かりませんが、ヤコブの箇所は一見信仰義認に反することばに見えますが
(実際それゆえにルターは正典からヤコブを取り除こうとしたくらいですから)
「行いを伴う信仰」を強調したもので、わたしにはごくまっとうなことばのように感じられます

22節にある「信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」というのがそれを
よく示していると思います

ここは何も信仰義認に対立する箇所ではなく、行いに現れるほどの信仰でなければ意味がない、
あるいは真に信仰を深めれば、それは行いに必然的に現れるものだ、ということだと思います