>>12-13
これは前にも先生が言ってましたね
パウロ的には自分がコリント教会の礎を据えたという意識だったが
実際には他の様々な伝道者がいて、パウロを含めた伝道者間で
伝えていることが若干異なっていた、ということなんですかね

当時のコリントがこれほどの大都市だとは知りませんでした
自由人と奴隷合わせて60万人というのは古代では破格の大きさと言ってもいいのではないでしょうか

教会員数も推定ではありますが、百人を超える規模だとすると
古代ではメガチャーチって言っていいくらいの規模だと思います

たしかにこれだけの規模であれば、多少の派閥化は生じてしまうかもしれませんね

さて1コリ2章ですが、ここでは人間の知恵と神の知恵が大きく対比されて語られています
パウロはもちろん神の知恵の側に立って論を進めていますが、その根拠として
12節にあるように、クリスチャンが受けたものはこの世の霊ではなく神からの霊だと語ります

少し気になったのは11節です
ここで言われる「神の御霊」というのは聖霊のことだと思いますが
前半の「人間の思いは、その内にある人間の霊以外は知らない」という言い方を類比として
語っているところから、この神の御霊も、父とは独立した聖霊という位格というよりも
神(父)の霊そのものであるように受け取れます
もちろんこの時点では三位一体の教義は確立していませんから、パウロ自身も
明確な位格的存在として聖霊を語っているわけではないかもしれませんが
実際のところ、パウロはこの「神の御霊」をどのように捉えていたと考えられますか?

あとはパウロに関してよく引用される2節ですね
福音書を読む我々はイエスが受難に至るまでの宣教で述べ伝えたこと
(例えば山上の垂訓など)をイエスの実質的な教えとして重視していますが
パウロはキリストのことばをすべて無視し、ただただ受難のキリストのみに焦点を当てています
このパウロの姿勢を先生はどのように見られていますか?