>>140
真宗が明治期に、おそらくは浄土宗との違いを明確にしようとして「絶対」という形容をつけたって
ことなんでしょうかね

さて13章ですが、いつの間にか2コリも最終章になってましたw

もちろんこの章は手紙最後の挨拶ということにはなりますが、その前に
パウロはかなり強い調子で「前に罪を犯した者たち」その他に対して悔い改めを求めているようです

3節でパウロは「あなたがたが、キリストのわたしにあって語っておられるという証拠を求めているから」と
理由を語っていますが、この「キリストの」というのは古文調で、「キリストが」ということでいいのでしょうか?
そうだとすると、要はパウロが真にキリストにおいて語っているかどうか疑念を持つ人達に向けて、
言い方は悪いですが、キリストの絶対性を盾にして「容赦しない」ことがパウロがキリストにおいて
語っている証拠だ、と言っているようで、どうもキリストの権威を笠に着て強引に自分を認めろと
迫っている印象があります

それに関連して7節でパウロにしてはおそらくは珍しく「良い行い」を促しています
パウロは、信仰や愛や希望を強く語ることはあっても、直接的に「良い行い」に言及することは
あまりなかった印象があります
ここもどうしても前段からの流れで、この「良い行い」というのはパウロに疑念を持つなと言っているように
感じられてしまいます

この辺は単なる私の邪推かもしれません
少なくとも教会の信仰者は、そういった教会政治的な意味ではなく
純粋にそのまま「良い行い」として受け取っているのでしょうし、信仰としてはそれで良いのだろうと思います