>>160
1章はまず挨拶から始まってますが、6節で早くもパウロから受けた福音とは異なる福音に
ガラテアの教会員が染まりつつあることを危惧しています
というか7-9節で本音がはっきりと書かれています

要は自分が伝えた福音と異なる福音を述べ伝えた者は呪われよ、という激しい怒りです

後半は他でも語られていたパウロのこれまでの経緯が語られています

1-4節は挨拶の一部ですが、1節ではキリストの復活は父である神によるものであること、
4節では贖罪論(刑罰代償論)といった具合にパウロの神学が端的に語られています

神学絡みでは11-12節が気になりました
ここでははっきりと、イエスと人間(この世の人)を区別しています
1節ではイエスと父の人格を明確に区別しているので
パウロにも三位一体の萌芽のような考えがあったということでしょうか?

根っからのパリサイ派であったパウロにとってイエスを「神」と言い切ることにはためらいがあるように
見受けられます
さりとて単に神に選ばれたメシアというようなユダヤ教の伝統の中で語られるメシアとも違って
非人間的存在としてキリストを捉えているようです
これはパウロが人間としてのイエスに直接教えを受けたのではなく
例の超自然的な回心体験によってキリストを信じたためだと思いますが
パウロはキリストをどのような存在として認識していたのでしょうか?