>>162
パウロに三位一体論の萌芽のような考えがなかったとすれば
いったいパウロはキリストをどのような存在として捉えていたかが私の疑問なんですが
復活した上に天に登って神の右手に座するほどの存在、人類の罪を肩代わりして
死を滅ぼすほどの存在、というのは、人間でも天使でも神でもないとすれば
いったいどんな存在と言えるのか

もしかしたらこういった存在類型には当てはまらないものなのか、あるいはぶっちゃけ、パウロは
そこまで深くキリスト論を突き詰めていなかったのか、どうなんでしょうね

さて2章ですが、前半はパウロたちがエルサレムに行き、そこで重鎮たちに「無割礼者への使徒」と
認められた、という内容になってますが、4節でパウロらの福音と異なる福音を伝える者を
「にせ兄弟」と口を極めて非難しています
この「にせ兄弟」は文脈的には異邦人にも割礼を強いる「ユダヤ派」のことでしょうか?

中盤はユダヤ派(割礼派)に日和るペテロを非難する文章が続き、後半の神学的に重要な箇所へと
入っていきます

16節の「キリスト・イエスを信じる信仰」に関して、もう何年も前にりんごさんに
ここは「キリスト・イエスの信仰」とも読めるらしいが、どちらだと思うか、と質問したことがあります
結局回答はもらえず、そのままになっている箇所です

NETはここを"the faithfullness of Jesus Christ"と訳し、訳注で
"Or 'faith in Jesus Christ.' としています
さらに原文は省きますが、「この箇所の(訳の)決定は難しく、伝統的にはイエス・キリストへの信仰と
訳されてきたが、パウロにおけるpistis Christouや同様のフレーズを主格的属格と解する新約学者が
増えている。これらの学者の主張で注目すべきことは、pistisが人称的属格を取るときにはほぼ決して
対格的属格にはならないということだ」といった主旨のことを述べています

わたしがこの説を初めて知ったのはRichard Haysという学者からですが、ギリシャ語の文法的釈義は
ともかく、内容的には非常に新鮮で、以来信仰義認を述べるパウロの箇所もこれを念頭に置いています
先生はこの箇所をどのように考えていますか?上記のパウロのキリスト論とも絡んできそうで興味深いです