>>164-166
すみません、寝てしまいましたw

幼稚な言い方ですが、天使以上神未満、みたいな感じですかね
パウロのキリスト論はもうしばらく考えてみたいと思います

16節に関しては、先生も文法的には主格的属格という判断ですね
内容的な解釈としては、なかなかおもしろい視点だと思います
わたしはNETの訳に近い解釈で、十字架に至るまでのイエスの神への忠実さ、
そのイエスを内住させたクリスチャンの同様の神(あるいはキリスト)への忠実さ(信仰)、のようなもの
ではないかと考えているところです
英語のfaithのほうがおそらくギリシャ語のpistisの意味範囲に近いように感じます
日本語で信仰と言ってしまうと、全幅の信頼とか忠実さというニュアンスがどうしても抜け落ちてしまう
ような気がします
日本語だと端的に「信」と言ったほうが近いのかもしれませんね

先生の解釈はそのさらに上である神自身の「信(信用に値する価値)」を起点に、
それに忠実なイエスの信、そしてそれを受けたクリスチャンの信といった感じになるのでしょうか
いずれにしても主格的属格という文法的解釈を受け入れることで
今まで単にクリスチャンの側の信仰であったものが、神-イエス-クリスチャンと連なる
一体性のある信の構造が見えてくるような気がします

さて3章ですが、ここは全面的に律法と信仰を対比的に論じている箇所ですね
律法は信仰が現れるまでの養育係であり、パウロはここで律法の時代は終わった、と
宣言しているように見えます
割礼派に対抗する形で律法用済み宣言をしているように見えます

ここでの疑問は19-20節の「仲介者」です
19節を読むと仲介者はモーセを指しているように読めますが20節ではイエスを指しているようにも読めます
この仲介者は誰を指し示しているのでしょうか?