>>169-170
なるほど、とてもわかりやすいです
律法の下、不完全な我々はいくら善行を積もうが1兆ポイントに達することはなく
かえって律法によって罪が明らかになるだけなのに対し
キリストの十字架を通して1兆ポイントの約束手形が発行された
この信用するに値する約束手形というピスティスを我々も全幅の信頼でもって信用(ピスティス)する
ことによって救いに預かれるのだ、まさに神のピスティスがキリストを通じて我々のピスティスになるので
あって、このことは「キリストへのピスティス」という対格的属格ではなく「キリストのピスティス」という
主格的属格で明確に表現されている、ということになりますね

「仲介者」に関しては、19節はモーセとみなしてよいが、20節はよく分からない、ということですね
解釈が400もあるということはもはや素人では手に負えないということなので、ひとまず塩漬けにしますw

さて4章ですが、前半は「神々の奴隷になっていた」、「もろもろの霊力に逆戻りして」といった
文言から察せられる通り、元異教徒であったガラテアの人たちに呼びかけているようなのですが、
後半からは「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ」と呼びかけているので、ユダヤ派というか
割礼派というかともかく律法重視の使徒(教師)に影響されたガラテアの人々への呼びかけに
変わってしまっています
この辺の推移はよく分かりません

内容的に重要なのは後半で、女奴隷から生まれた子(イシュマエル=奴隷の子)と自由の女から
生まれた子(イサク=自由の子、約束の子)といった対比を、今のエルサレムの教会人と
パウロに従うクリスチャンの対比に当てはめ、女奴隷とその子を排除せよと述べているところだと思います

当時、自身が真実と信じていた福音を伝える熱情に燃えていたパウロにとっては
このような苛烈な二極化、真理と非真理、霊と肉を分け隔てる言説は致し方がなかったのかもしれませんが
こういったパウロの言葉が、歴史的なキリスト教の排他性に影を落としているのは
否めないような気がします