>>173
ガラテアの教会人が改宗した後もかつての古い異教の習慣を守っていることに対して
パウロは呆れ、かつ彼らがユダヤ主義者に影響されていることに対して叱責してるってことですね
これならつながりが分かります

さて5章ですが、ここでは冒頭パウロは、はっきりと「割礼かキリストか」の選択を迫っています
ただ6節では割礼はあってもなくても問題ではないと言っているので、この選択は割礼をしなければ
救いに入ることはできないと考えている律法原理主義者に対する選択なのでしょう

後半は割礼そのものから肉の働きと御霊の実へと話題の中心を移し、その結果を具体的に列挙しています
ここはよく引用される有名な箇所ですね

今回気になったのは、まず6節の「愛によって働く信仰」です
パウロはコリントで「愛がなければ信仰は虚しい」と言っています
パウロはとかく行為義認と信仰義認の文脈で話題にされますが
コリントでもここでも分かるように、信仰の根底に愛を置いているようです

パウロの手紙を読んでいると、どうしてもその難解な神学的言説や割礼派に対する容赦のない批判に
目を奪われがちになりますが、こういった箇所にこそパウロの真価があるのだと思います

もうひとつ気になったのは14節の律法の全体は隣人愛に尽きる、と言っている箇所です
ここはまさにイエスが述べた律法の要約と見事にシンクロしています
もちろんパウロは「だから律法を遵守せよ」と言っているわけではなく
ここでは律法の精神の核に隣人愛を見ているわけで、割礼のようなしるしによる救いを批判する点では
変わりはありません

18節にあるように、御霊に導かれるなら律法の下にはないが、23節にあるように
御霊の実を否定する律法はないのですから、パウロは律法そのものの精神的内実を否定しているのでは
なく、律法を救いの必要条件とするような律法原理主義者、あるいは割礼のようなしるしに拘る
形骸的律法主義者を批判している、ということになると思います