>>198
聖書はそもそも客観的な視点からユダヤ民族の歴史を記録しようとして編まれたものではないですからね
人の営みを宗教的な観点から読み解き、記録し、教訓とするように編まれているわけですから
わたしも聖書を単に史実に即しているかどうかという視点のみで読もうとは思いません

それでも史実は史実、事実は事実として判断する視点は宗教的な洗脳を避けるために大切なこと
だと思います

そのうえで、宗教的な教えとしての要点はどこにあるのか、さらには自分にとって聖書は何を語っているのか
といった重層的な読み方をしていくことが大切になるんだろうと思います

例えば出エジプトという史実は史学的、考古学的にはほぼまったく確認されていません
しかし聖書に描かれた出エジプトには、解放者としての神、神との契約を忠実に守ること、
様々な苦難があっても神を(つまりは義と愛を)信頼し続けること、といった宗教的な教えが描かれています
また出エジプトからカナンへの入植の苦難の過程を自分ごととして追体験することによって
決然と選択すること、信念を貫くこと、感謝することなどの意義を
自分の人生と照らし合わせて考えてみるきっかけにもなります

ところで昨日はずっと都内にいたのですが、突然の激しい雷雨でたいへんな目に会いました
道路が水浸しになって、まるで川の中を歩いているようでしたし、なんとか駅に着いたら
今度は電車が止まっていて動きません
一時間待ってようやく電車に乗れたものの、ずぶ濡れの体に冷房は堪えますw

古代人の旅路はこんな生易しいものではありませんが、こんなときには自然に翻弄されざるを得なかった
古代人の経験とそこから導き出された神への祈りや信頼というものを少し理解できたような気になります