>>200
わたしも数十人から数百人程度の小規模な「出エジプト」はあったかもしれないとは思います
しかし「聖書が伝える出エジプトが……かえってそれが十分起こりうる状況であったということができる」と
いうのは事実判断よりも護教を優先した発言だと思います

というのはエジプトの史料でイスラエルの名が初めて出てくるのは前1208年頃のメルエンプタハ碑で
しかもそれはカナンの地で殲滅した諸都市・諸民族のひとつとして描かれています
(これもイスラエルを指すのかどうか論争があるようですが大半の学者はイエスラエルと考えているようです)
よってそれ以前の碑文にはイスラエル民族と同定できるものはなかったことになります

また何よりも「聖書が伝える出エジプト」は成人男子だけで60万、妻子などを入れれば数百万になります
これに家畜等が加われば膨大な数の人畜の移動があったことになります
仮に人だけで200万人程度だとして、家財や家畜を含めてコンパクトに詰めても
ひとりにつき1平方メートルほどのスペースが必要だとすれば200万平方メートルにもなります
これは東京ドーム2個分が一斉に移動するようなもので、これだけの大規模な移動があれば
必ずその痕跡が残るはずですが、まったく見つかっていません
しかもこれだけ大規模な移動であればエジプトにそれに関する記録が残っていないほうが不自然です
実際にIsrael Finkelsteinという考古学者が数年かけて大規模調査をしていますが
そのような痕跡は一切見つかっていません
なので「聖書が伝える出エジプトが起こり得る状況」は、「ほとんどなかった」というほうが適切な判断である
ように思えます

すみません、話が脇に逸れてしまったので、イザヤ書に戻ります
9,10章は8章からの続きだと思いますが、ここで注目すべきは何よりも9章冒頭の
「異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」、「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた」という箇所です
そのまま読めばもろにイエス・キリストを指しているように読めます
先生はこの箇所を予型論的に読むのではなく、ヘブライ語聖書の枠内で読むとしたら
どのように解釈されますか?なぜガリラヤなのか、われわれのために生まれたひとりの男の子とは誰なのか?

この箇所以外はほとんどが主の怒りの記述で埋められています
(10章21節にあるように残った者が神に帰る、というのは描かれていますが)
それだけにこの9章冒頭は異彩を放っているように思えます