>>202
アッシリアの北イスラエル征服に際して、具体的な指示対象なくメシア待望論として書かれたもの
って感じですかね

6節の「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」はエジプトにおける王の呼称に
影響を受けた表現である可能性があるってことですね
たしかに「大能の神」や「とこしえの父」という呼称を考えると神を指しているという解釈もなりたつように思います

新約聖書では、この箇所を福音記者や初期のクリスチャンたちが
キリストとしてのイエスを予言した箇所と解釈するわけですが、そう解釈しても不自然ではないほど
キリスト教の視点から見ると「よくできている」と思います

イエス本人がイザヤ書のこの箇所を自分を指し示すものとして読んだかどうかは分かりませんが
わたしはイザヤ書の影響は単に福音記者や初期クリスチャンに対してだけでなく
イエスに対する影響もかなり大きかったんじゃないかという気がします

さて、11-12章ですが、比較的短くて助かりますw
この2章は7章や9章以上にクリスチャンにとってはまさにキリストを予言した箇所と感じられたことと思います

というよりも11章の1-2節はマタイやルカのイエスの系譜、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼時の描写に
そのまま反映されていると思いました
福音記者たちは、まさにこのイザヤ書に沿ってキリストの物語を語っていったのだと思います

印象的なのは6-8節の牧歌的な描写です
肉食獣と草食獣がともに平和に暮らし毒蛇すら赤子と戯れるようなイメージは
平和を希求したイザヤ書の記者が心から願い求めた未来像なのだと思います

逆に気になったのは14節です
カナンの地、あるいはその近隣に関しては、友好関係などではなくイスラエルによる征服を暗示しています
ということは(第一)イザヤ書の記者は漠然と世界平和を願ったのではなく
あくまでもイスラエルの平和を願ったように読めます
民族を超える射程を伺わせる第二(第三)イザヤに比して、第一イザヤはそこまでの射程はもっていなかったのでしょうか?