>>34
現代の感覚で親の世代だから二、三十は年上だろうと考えては駄目ってことですね
古代では結婚は若い年齢でなされるのが通常でしょうし、ある程度裕福な男性であれば
若い女性と結婚(再婚)することも多かったでしょうから、男性側が死んで女性が再婚する際には
「息子世代」となることもありますからね
そういう背景だと息子と再婚というのも現代ほど不謹慎ではなかったのでしょう
単にパウロの道徳観と抵触していただけだったのかもしれません
それでも自分には裁くのは神のみと言いながら、他人に対しては堂々と裁いているのは矛盾ですね

>>35
キリスト教での復活は肉が新しくされたとしても霊肉での復活(あるいは携挙の場合は
死すことなく救われる?)ですから、霊肉を分離して肉をサタンに渡すことで霊を救うという
発想は全く理解できません

このへんはパウロ先生、ちょっと個人的な感情が入りすぎてるのかもしれませんね

さて6章ですが、教会なでの紛争で相互に訴訟を起こすような事態になっていることを
パウロは窘めているようです
それはまあ分かるのですが、それに対する理由付けの部分がちょっとそれでいいんだろうかと
感じます
具体的には、2-3節の「聖徒は世を裁く者」「わたしたちは御使いさえ裁く者」という認識というか、
理由付けの部分です
こういった認識はクリスチャンの傲慢さを生むように感じます
裁くのは神のみ、と言ったんだから、それで一貫させるべきなのに
仮にレトリックだとしてもこんな言い方をすればクリスチャンの傲慢さを助長することになると危惧します

12節の「すべてのことは、わたしに許されている」というのも同様に傲慢に聞こえますが、
これは単に人は自由意志でなんでもできるが、なすことがすべて益になるわけではないと
いうことを言いたいだけなのでしょうか?

最後は聖徒の体はキリストの贖いによって買い取られた聖霊の宮なのだから
その体をもって神の栄光を表せという核心的なキリスト教倫理を語ってますね